なぜ大人は「ボーっと生きている」のか・解離の手のうちで踊る人生

目次

     導入

    この記事について

     この記事は、解離について勉強した時にふと思った備忘録です。まだ十分にまとめられていない部分もありますが、この記事に書く内容は、今までの私が喉から手が出るほど知りたかった内容になることと思うので、ここに書き残しておきます。


    用語説明・解離とは何か

     本節では、この記事の主役になる「解離」という言葉について説明します。解離と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。「理想と現実が乖離している」という言葉で使われる「乖離」とは漢字が1文字違うこの言葉は、つながっているものが、束縛が取れて離れることを意味します。一般的には、原子などがイオン化することや、「大動脈解離」のような医学用語として使われています。


     しかし、ここで説明するのは、もう少し狭い範囲における「解離」です。それは心理学において使われます。意味は次の通りです:


    解離(心理学的文脈)

    →人の精神に備わった、無意識の防衛機構の一つ。個人の意識や行動が、ストレスなどの要因によって自身の精神活動から分離されること。感覚の遮断。


     これは家庭のブレーカー(配線用遮断器)に喩えると分かりやすいでしょう。電気を使いすぎたり、どこかがショートしたりすると、家庭のブレーカーが落ち、家が一時的に停電します。電気の異常(ストレス)によって、配線(精神活動)を家電製品など(行動や意識)と切り離すのですね。何か高度な負荷がかかった時、一時的に隔離して身を守るような機構というわけです。


     解離はこのようにブレーカーに喩えると分かりやすい心理学の用語です。


    解離のいろいろ

     この解離において、恐らくもっとも有名なものの一つは「解離性障害」です。まず、解離性障害とは何かを説明します。


    参考:https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/dissociative_disorder/


     解離性障害とは、あるまとまった記憶が抜け落ちる「健忘」や、過去の体験がまざまざとよみがえってしまう「フラッシュバック」などの、意識や記憶の統合が損なわれた状態を言います。ブレーカーは電気が導通しているか遮断されるかの2択ですが、解離性障害の場合はこれが意識、記憶、自己イメージ、感覚などの様々な領域で起こります。そのため、症状の表れ方も様々です。


     解離性障害ともなると、その深刻な症状によって日常生活が送れなくなると言われています。しかし、解離は解離性障害に限った劇的なものではなく、実は様々な程度で存在しています(このように「様々な程度で連続的に存在すること」を「スペクトラムをなす」とも言います。)。


     もし「解離性障害」を虹色の「赤」の部分(最も程度が大きいことを、ここでは虹色の赤のほうで表現します)に据えるとすれば、その中間の黄色や緑、青や紫の部分にも様々な状態が存在します。ここでは紫、すなわち最も程度が軽いものを見てみましょう。


     それは「白昼夢」が該当します。瞑想をしている時や、あてもなく散歩しながら空想している時などの、こうした「ぼーっとしている状態」は解離の一種です。「今・ここ」と「頭の中」が切り離されているのですね。


     こうした「白昼夢」的な解離は、子どもに多いと言われています。授業中に何かを考え、先生の話が上の空だった、と言うような体験はまさに紫色の部分に位置する解離です。ここから分かるように、解離は決して大胆で奇妙なものではなく、だれにでも起こる極めて一般的な現象です。


     私はよく数式を書いたりブログを執筆したりして時間と自分を忘れることがありますが、これも解離ということになるでしょう。熱中によって、目の前の現実と頭の中が切り離されるのです。この例から分かるように、解離はマイナスなものとは限らず、心地の良いものであることもあります。


     ちなみに、もう少し中間寄りの「青色」や「緑色」の部分には、パニック状態や頭が真っ白になることなどがあるでしょう。交感神経の過剰な興奮によって、意識がシャットダウンするのです。このように、解離とは何かを考える時は、解離をスペクトラム(虹色のようなもの)とみなしてその各色の部分に状態を置くと分かりやすいです。


    「大人は鈍重だ」と悩んだ大学1~3年時

     ここから本論に入ります。今回の私の着想を簡単に述べると、私がこれまで「ヒト化」や「子ども至上主義」という言葉で悩んできた大人の鈍重さは解離反応の一種ではないか、ということです。

    大人が鈍重とは?

     「大人が鈍重」というのは、私が体験した違和感ですが、恐らくこれは普遍的に見られる現象です。

     私がこれを最もよく感じるのは、性犯罪や不祥事のニュースを見た時です。彼らは、そんなことでしか自分を表現できなかったのかと、どこか同情しながら愕然とするからです。

     2022年5月に書いたメモ帳『オトナ、ナゼオトナシイ』より引用します:

    (前略)しかし、大人の場合、ルール外の自由を見つけようとすると、たいてい法律に反する結果となる。(まず、これが「大人がおとなしくなる」理由の一つだ。)例えば、脱税など。これは時に良かれと思って行う節税と表裏一体である。

     また、大人の場合、自由性が高いことも「大人しくなる」理由になる。つまり、もともとのルールの自由性が高いため、どのように生きてもたいていの場合「ルール外の自由」に至れないのだ。

     

     子どものころ、私たちには大いなる自由がありました。子どもなので経済的・能力的な自由はなかったにせよ、目の前の何の変哲もないものが壮大な何かに見えたり、ただの青空の向こうに無限の可能性を感じたり、と言った圧倒的な思考の自由がありました。


     「新幹線みたい」(縁石を見た時の子どもの一言)

    「お星さまみたいにピカピカしてるー」(窓掃除している時)

    思わずハッとした子どもの一言を教えて!|保育と遊びのプラットフォーム[ほいくる]


      私が今も大事にし続けているのは、この圧倒的な思考の自由です。俳句や短歌を詠むのも、物理をやるのも、散歩に行くのもこの自由を研ぎ澄ませるためです。私は、経験上この自由の中にいる時は最も精神安定します。


     そのような私が、2019年~2025年にかけて「大人」について悩み、パニック発作に襲われたのは、必然のことです。私は三つ葉のクローバーたちがヘリコプターの大群に見えるような、自由な空想の中にいる時に最も生きた心地を感じ、逆に本来自分がするべきこともできるようになるような人なのです。


     大人が鈍重というのは、この逆です。縁石は縁石にしか見えず、クローバーにヘリコプターが映らない。以前の記事にも書いたように、和式トイレの話をしているときに「市の予算」の話をしてしまう。私はそのような大人に何度も苛立ち、恐怖を感じ、そして自分もそうなっていくような違和感と絶望を感じたのでした。それが大学7年間で287回に及ぶパニックの本体です。


     大人は鈍重であることを裏付けるかのように、それを大人である主治医や支援の先生に相談しても、いつも首を傾げられてしまいました。そして、それを「インナーチャイルド」やら「無の境地」やらと言ったありきたりな言葉で言語化してしまう虚しさ。私も大人になる以上、一般的な常識に魂を売らなければいけないのか、という恐怖がずっとありました。そう、鈍重にならなければいけないのか、という恐怖が。


    子ども至上主義とは何か

     これと同じ文脈で理解できるのが、子ども至上主義という悩み(主に2019年~2023年)です。「人生で一番良いのは子ども時代で、大人はそれを失う。」そうした考えに支配され、全ての物事に幻滅した生き地獄のような日々です。

     これはまさに「大人の鈍重さ」によって引き起こされた悩みでした。人並みに苦労や厳しさを知り、それをわきまえる。物事を見ても想像ができず、「それはただそれ」に見え、おまけに経済的事情や権力の話、評論的な視点が割り込んできて「心ここにあらず」になってしまう。そして日々お金のことや仕事、事務手続きに追われ、ふとした時に受動的に何かを感じてほっこりする。自分から何かを創造することはなく、楽しいことはその理由まで全て一般的な言語で語り尽くせてしまう。そして、楽しんではしゃいでいる子どもたちの背景になってしまう。私は、そうしたものが大人だと思っていた頃は、毎日死にたいほどつらかったです。

     こんな風刺まで考えたこともありました:

    正座してあくせくと書類を書いている背後から、おもちゃの短剣をもった子どもにお尻を突かれて「カンチョー」されてしまう。「あっ」という声が漏れてしまい、自分は何に真剣になっているんだ、と考え込んでしまう。

     

     子どもよりも酸いも甘いも知っているはずなのに、自由は単調に減少してしまうような大人になることが、恐怖でしかありませんでした。この風刺は当時、夢でよく見ており、現実世界でも、エスカレーターなどで子どもが背後にいる時は動悸などが起こっていたものです。


     子ども至上主義。それは自由な空想に最も安心して生きた心地を感じる私が「大人」という無言の圧力のうちに閉じ込められたときに感じた、魂の大きな窒息だったのです。


     因みに、この子ども至上主義は、療養を行っている現在はほとんど軽快しています。時々出てくることはありますが、基本的には「大人だからこそ、子どものように生きる道も選べる」という発想の転換で和らいでいます。大人の経済的・能力的自由をフル活用して、子どもの頃と同じ空想や思考の自由を、今度は自分で手に入れるのです。


    鈍重さは解離なのか

     ここで解離の話に戻ります。解離はスペクトラムをなし、あらゆる程度が連続的に存在するのならば、大人の鈍重さもまた解離なのではないか、という仮説が立ちます。

     今まで述べてきた大人の鈍重さの場合、本来の自分としての自然状態と、現実の自分とが切り離されてしまう解離が起こると考えられます。もし縁石が新幹線に見えたり、クローバーがヘリコプターに見えたりするような状態が「自然」なのだとすれば、そこから切り離されてしまう状態は解離と言えそうです。

    人生経験という過負荷

     ブレーカーは、配線がショートしたり、過重な負荷がかかったりすると落ちます。これが解離と同じようなものであることは、冒頭で説明しました。

     すると、面白いアナロジーが湧きます。私たちが人生で経験する、不自由や苦労は、脳にとっては意識のブレーカーを落とすような過負荷なのではないか、というアナロジーです。

     私たちが日頃目にするニュースや膨大な情報、および複雑な条件分岐が緻密に広がる仕事のタスク、さらには法律などのルールは、一種の過負荷ではないかという考えです。当然、これらはブレーカーを派手に落とすような過負荷ではありません。しかしそれでも、意識の一部を確実に、じわじわと落とすような過負荷ではないかと思っています。

     全ての人生経験が過負荷であるとは言いません。過負荷にならない人生経験もあることと思います。しかし、特に私の場合は中学時代以降の経験はほぼすべて過負荷でした。名字を呼び捨てにされることも、体罰も、校風検査も、大学受験も浪人も、履修申告や大学の複雑なシステムも、全て解離を起こすのに十分な「過負荷」だと考えられます。

     ここには私のストレス耐性も関係していることでしょう。私は、ストレス耐性はかなり低い人間であることを自覚しています。しかしそれは身長のようなもので、一時期は伸びますがその後は本質的には変化しません。そのため、今後の人生においてストレス耐性そのものを底上げすることは考えていません。

     では、これらの過負荷は、どのように自然と実態の解離を起こすのか。


    雲感

     小学4年時に自覚し、2020年ごろに言語化した概念に「雲感」というものがあります。

     雲感とは簡単に言えば、脳内のショートカット経路のことです。最初は感動した曲も、何回も聴いていると感動しなくなることがあるように、人には本能的に「情報をショートカットする経路の形成」が備わっているようです。いわゆる慣れのことです。

     私は、この慣れのうち、日常の物事がストレートに感じられなくなることを「雲感」と名付けました(2020年3月)。ちょうどこれは、クローバーを見てもヘリコプターには見えず、ただの三つ葉の植物・クローバーにしか見えない(あるいはクローバーの辞書的な特徴ばかりが浮かぶ)状態です。これは恐らく、脳科学的には使用エネルギーの最小化のために備わっているのでしょう。

     この雲感は極めて日常的な感覚ですが、同じことが人生の随所で起こっていると感じます。例えば、定期テストが本格的になった中学以後は、植物を見ても「これは裸子植物だろうか?」という思考が邪魔をして、植物を見ても感動しなくなってしまいました。子どもの頃や今は、ススキを見ると「小人たちが乗る、もじゃもじゃの金髪が立ち昇る巨大な滑り台」に見えますが、当時の自分にはただの単子葉類でしかありませんでした。

     このように、雲感は外からの情報によって増強されることがあります。小学6年次は、戦国武将に見立てて好きだった自分の名前も、中学で呼び捨てにされるようになってから嫌いになってしまったこともありました。こうした「嫌い」という本能的感覚は、情報を感じるはたらきを幾分か下げてしまいます。すなわち、過負荷の一つとして、嫌いや脅威などの情報があります。

     大人になると、経済の大切さを身をもって学ぶ分、お金の数値に感情を乗っ取られてしまうようになります。「年収〇〇億円」というだけで自分の何人分だという風に考えてしまったり、値上げや物価高が脅威に感じられたりするものです。こうした本能的な恐怖の刺激は社会には溢れていますから、こうした情報の中で雲感が発生し、実感よりも数字に一喜一憂する大人になってしまうというわけです。脅威的な情報は、この場合過負荷として働きます。

    一人前という感作成立

     感作という言葉をご存知でしょうか。アレルギー反応において、「次に抗原が入って来たらアレルギー反応が出てしまう状態」を言います。

     分かりやすく言うと、アレルギー反応が出るスイッチがオンになってしまうことを言います。スイッチがオンになってしまったことを「感作成立」と言います。例えばスギ花粉の抗体がつくられ、スギ花粉に対するスイッチが入れば「花粉症の感作成立」と言います。


     私は、一人前になるとか成長するという言葉が嫌いです。それは、子どもの頃からもっている圧倒的な思考の自由を奪われてしまうことに感じられるからです。些細なことを気に止めなくなり、それはそれにしか見えない人になってしまうように感じられるからです。

     この「一人前」という言葉は、実は、上記の雲感に乗っ取ればアレルギー反応における「感作成立」にそっくりであることが分かります。経済の大切さを学ぶ話を思い出して下さい。お金の大切さが分かるようになると、その数値に感情を持っていかれてしまいます。これは、それまでは感じなかったことを脅威として感じ、そこから身を守る反応(節約、貯金、心配、・・・)が出るようになってしまう点でまさに「感作成立」です。同様に、命の大切さを実感すれば凶悪犯が絶対に許せなくなったり、生きることの重さを実感すれば若者の軽率な発言に虫唾が走ったりするようになります。これもすべて「感作成立」です。

     一度感作が成立すると、それ以外のことが考えられにくくなります。そして、その結果生ずる怒りや恐怖などの(身を守るための)感情は、身体を興奮させ、今ここへの注意を難しくします。また、「年収〇〇億円の人は自分の何人分」という思考などは破壊力が強く、強烈な内省や悔しさなどを誘起します。こうしてますます「今・ここ」から意識がそれてしまいます。すなわち、一人前になることは、慢性的な解離の感作を成立させる働きがあるのです


    ボーっと生きるとは?

     この鈍重さに悩んでいた頃、世間ではタイムリーにも『チコちゃんに叱られる!』という番組が誕生して放送されていました。

    チコちゃんのイメージ画像。



     子どものキャラクターである「チコちゃん」が、純粋な疑問と感性という圧倒的な鎧を身にまとい、常識的な大人を「ボーっと生きてんじゃねえよ!」と断罪するその番組は、子ども至上主義を形にしたといわんばかりの強烈なインパクトをもち、子ども至上主義をもたない大衆の大人もそれに関心を寄せました。

     私はこの番組が大大大・・・大嫌いで、こんな怪物のようなキャラクターとそれを面白がる人間が憎くてたまりませんでした。社会に幻滅し、こんな人間のうじゃうじゃ生息する社会に出ていくのならば死んでやる、と何度も思ったものです。

     私は、当時からチコちゃんのいう「ボーっと生きてんじゃねえよ!」が許せませんでした。それは、大人がそうせざるを得なかった過去や人生そのものを否定する言葉に聞こえたからです。

     今まで述べたように、大人は好きで鈍重になっているのではありません。そうならざるを得なかったのです。私にとっての呼び捨てや体罰がそうであったように、無数の脅威から身を守るために慢性的に解離しているのです。それは、各個人で程度の差はあれ、全て切実な生存戦略なのでしょう。それを、「ボーっと生きてんじゃねえよ!」というのは、これはあまりにもひどすぎます。まるでチコちゃんだけが独裁者のようになってしまいます。自分の言いたいことだけを「純粋さ」を盾に無責任に言い散らし、大人たちは自分の無知を知って苦笑いする。中にはチコちゃんに考えさせられたとか、感動したとかいうことも聞いたことがありますが、お笑いぐさとしか言えません。大人たちは、生きる喜びを放棄し、魂をチコちゃんや子どもに売ってしまったのか。もっといえば、大人になるとそうせざるをえなくなってしまうのか。あまりにもひどすぎる大人の現実、およびこれが「国営放送」という現実に、私は絶望していました。

     子ども至上主義は、間違いなくチコちゃんのせいで生まれた病態であるといえます。なにしろ、大学の教員にもこのチコちゃんのことを本気で話題にしている人が数人おり、その年からこの病は悪化したからです。

     こんな大人たちが「人として」を語っても、子どもに魂を売った人の言う意見など、説得力の欠片もありません。


    圧倒的な思考の自由も解離である

     私は、かくいう理由で大人になること、成長することを忌み嫌っていました。それは、一度感作が成立すると、否が応でも子ども心から遠ざかってしまう危険があるからです。

     そのため、その心配は(今は)ない子どもは素晴らしい、と言っていたのでした。子ども至上主義はその典型かつ頂点です。では、子どもは本当に自由なのか。

     この「解離」という視点で見てみると、大人はおろか、子どもですら解離から自由ではないことに気づきます。実は、今まで述べてきた大人の鈍重さは、解離の一側面しか見ていないのです。解離はスペクトラムであると同時に多面的であり、子どもの圧倒的な思考の自由もまた解離の産物である、ということも言えてしまうのです。

    空想という解離

     実は空想もまた解離の一種だといえます。冒頭の虹色の例を思い出してみましょう。

     解離の紫色の部分に、白昼夢があるといいました。また、過集中や没頭も、一種の解離といえます。縁石が新幹線に見えたり、窓に星空が浮かんだりする発想も、空想と実態の解離と考えられます。いずれも、程度が軽い紫色の解離です。

     これは子どももまた、大人と種類は違えど解離しているということを示しています。圧倒的な思考の自由であっても、それは解離から自由という訳ではなく、それもまた現実と切り離された独自の世界をなしているのです。

    解離の手のうちで踊る人生

     この考えを繰り返していくと、ある思考にたどり着きます。それは、あらゆるものが解離ではないか、という思考です。

     子どもの頃は空想と現実が解離しており、大人は大人で、社会的脅威から身を守るために今こことタスクが解離している、ということです。子どもと大人の間、すなわち思春期もまた、能力の過信や若さゆえの大胆な行動などが見られ、自己イメージが現実と解離しています。全年齢にわたって、何かしらの解離があるのです。

     仮に解離ではないものを無色透明(あるいは白でもいい)とすれば、この世で知覚するほぼすべてのものは虹色のうち何らかの色に染まっていると考えられるのです。重篤な症状はオレンジや赤に染まり、軽いものは青や紫に染まります。パニック障害などは緑や黄色になるでしょう。

     私たちは、それがどんなものであっても、全て解離のスペクトラムの上で何らかの色をもっています。知覚する物事のあらゆることに解離が含まれているのではないか。これは、私たちの人生が、解離という手のうちで踊っている一篇の物語のようなものではないか、という衝撃の描像を導きます。

     解離の勉強をして辿り着いたこの思考を記録したいと思い、この記事を書きました。


    おわりに・虹色に染まった世界で

     もしこの思考が正しいとすれば、私たちは多少の解離のなかで生きていることになります。無論、この思考自体が誤りであり、拡大解釈だった可能性もあります。しかし、解離の織り成す虹色の世界で生きているという描像は、どこか美しくもあります。

     また、これは完全なる現実が存在しないことを示唆しています。いくら現実を見ているように思っても、どこかで切り離された部分があるのです。これは、人間がなかなか真理にたどり着けないこととも重なります。

     これは完全に妄想ですが、もしかすると、人間が有限であり、有限な世界の中で楽しみや悲しみなどを感じながら生きることには、解離という機構が備わっていることが関係あるのかもしれません。彩りの多い人生には何かしらの(程度の軽い)解離があり、その解離によって、私たちは人生という白昼で夢を見続けられるのかもしれませんね。

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