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なぜ「自分のことを分かってほしい」と思うのか ~承認欲求などの背後にあるもの~

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目次  はじめに   「自分のことを分かってほしい」「自分の取扱説明書(トリセツ)」。  このような言葉を昨今、様々な場所で耳にするようになりました。「自分はこんな人生を歩んできた」「こんな苦労をしてきた」。そのような経験や思いを他者にぶつけ、理解を得ようとしている人は多いかもしれません(私もそうでしたし、今もそうなる時があるので人のことを言えませんが)。  では、それはなぜでしょうか。 ミーイズム という言葉があります。これは「自分の興味や関心、幸福を最優先にし、社会的な事柄や他者の事情にはあまり関心を払わない自己中心主義」という意味の言葉で、一言で言えば自己中心、わがままのことです。「自分のことを分かってほしい」という思いは、しばしばこのミーイズムとして解釈されることが多いです。そして、ミーイズムはネガティブなもの(わがままなど)として解釈されることが多いです。 私たちの心には「自分だけがよければいい」と考える利己の心と、「自分を犠牲にしても他の人を助けよう」とする利他の心があります。利己の心で判断すると、自分のことしか考えていないので、誰の協力も得られません。自分中心ですから視野も狭くなり、間違った判断をしてしまいます。 『稲盛和夫オフィシャルサイト』より   確かに、ミーイズムに陥っている状態では判断力、注意力も低下し、常に認知に「自分」というバイアスがかかっているので、何を考えても自分のことばかり考えてしまい、思考力も落ちてしまいます。「自分はこんなに大変だった」「自分はもっと評価されるべき存在だ」「自分は、」「自分は」・・・。  なぜ、今の社会にはこうした「自己中心主義(ミーイズム)」のような状態が普遍的に見られるのでしょうか。これは日本だけでなく、世界中で起きているとも言われています。 ベトナム戦争は遠い昔としても、イラク、アフガニスタン戦争、先の見えないテロとの戦い、リーマン・ショックなどの金融不況に疲弊しきった米国民は、「世界を指導する米国」よりは「自分たちの米国」を求めたのだ。「ミーイズムの世界」である。 「米国第一主義」が生み出す世界秩序の空白|公益財団法人 日本国際フォーラム   そこで、「周囲のこと」よりも「自分のこと」を主張する人が多い理由を、この記事では「社会の複雑化」「安心で...

ワーキングメモリー症候群 ~記憶の低下や集中困難の謎を解く~

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目次  はじめに 導入  ある日、ふと本棚にあった電磁気学の本を手に取って、パラパラと開いてみました。すると、目に留まったページに「荷電粒子の電磁波放射」という内容が載っていました。加速度運動する荷電粒子は電磁波を放射する。少し読むうちにそれに興味が湧き、私は関連する計算を行いました。しかし、途中でスマホの通知に気づき、それを見ているうちに荷電粒子の電磁波放射に関する計算のことを忘れてしまいました。その後、この計算に戻って来ることは二度とありませんでした。  これは、学部時代に私が陥っていた最もよくある行動パターンの一つです。この例における「荷電粒子の電磁波放射」のような、突発的に湧いてすぐに消え去る興味関心は今まで大量に存在し、生活のほとんどがその 「細切れの興味関心」 にもっていかれてしまいます。そしてそれらは「細切れ」なので、やった端から取り組んだことを忘れてしまいます。ほとんどの文書は書きかけで、始めた電子工作のプロジェクトも最後までできたものはほとんどなく、 やりかけのそれらの数だけが100、200、・・・と増えていくような学部時代 を送っていました。 苦しさの主訴  この状態で一番苦しいのは、大量の物事をやったのに全て「ダダ漏れ」し、スキルや成果が何一つ残らないことです。突然何かを思いついて実行するものの、まとまらずにやめてしまい、その未達成の物事だけがどんどん増えていく、という状況です。これは分かっていても止められず、ある時は「自習ノート」を新しく作って「3日で1テーマ学ぶ」と決めて取り組んだのが、 そのノートごと作った翌日には忘れていた 、ということもありました(2022年12月ごろ)。  つまり、思いついたことばかりが先行して一向にまとまらず、結局何もできない、というのが一番苦しいのです。これは、まとめると次のようになります: (1)ほとんどの興味関心が、突然の思いつきですぐに消えてしまう。 (2)長く続いた物事がない。10分続けばよいほう。 (3)やろうと思ったことを忘れる。 (4)一度「やる」と決めたことができない。多くはパニックや不調、新たな思いつきで中止になってしまう。 (5)一体いつ思いついたのか覚えていない、よく分からないアイデアばかりがゴミのようにたまっていく。  その様子は、傍から見れば何かを...

なぜ大人は「ボーっと生きている」のか・解離の手のうちで踊る人生

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目次  導入 この記事について  この記事は、解離について勉強した時にふと思った備忘録です。まだ十分にまとめられていない部分もありますが、この記事に書く内容は、今までの私が喉から手が出るほど知りたかった内容になることと思うので、ここに書き残しておきます。 用語説明・解離とは何か  本節では、この記事の主役になる「解離」という言葉について説明します。解離と聞くと何を思い浮かべるでしょうか。「理想と現実が乖離している」という言葉で使われる「乖離」とは漢字が1文字違うこの言葉は、つながっているものが、束縛が取れて離れることを意味します。一般的には、原子などがイオン化することや、「大動脈解離」のような医学用語として使われています。  しかし、ここで説明するのは、もう少し狭い範囲における「解離」です。それは心理学において使われます。意味は次の通りです: 解離(心理学的文脈) →人の精神に備わった、無意識の防衛機構の一つ。個人の意識や行動が、ストレスなどの要因によって自身の精神活動から分離されること。感覚の遮断。  これは家庭のブレーカー(配線用遮断器)に喩えると分かりやすいでしょう。電気を使いすぎたり、どこかがショートしたりすると、家庭のブレーカーが落ち、家が一時的に停電します。電気の異常(ストレス)によって、配線(精神活動)を家電製品など(行動や意識)と切り離すのですね。何か高度な負荷がかかった時、一時的に隔離して身を守るような機構というわけです。  解離はこのようにブレーカーに喩えると分かりやすい心理学の用語です。 解離のいろいろ  この解離において、恐らくもっとも有名なものの一つは「解離性障害」です。まず、解離性障害とは何かを説明します。 参考: https://www.saiseikai.or.jp/medical/disease/dissociative_disorder/  解離性障害とは、あるまとまった記憶が抜け落ちる「健忘」や、過去の体験がまざまざとよみがえってしまう「フラッシュバック」などの、意識や記憶の統合が損なわれた状態を言います。ブレーカーは電気が導通しているか遮断されるかの2択ですが、解離性障害の場合はこれが意識、記憶、自己イメージ、感覚などの様々な領域で起こります。そのため、症状の表れ方も様々です。  解離性...

空想世界の素晴らしさ・休学を始めた今の心境を綴る

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目次 概説  良い曲は、聴くと素敵な風景にいざなってくれます。ある曲は黄金の朝日が輝く高地の花畑に、またある曲は、冷たい雨がしとしとと降る薄暗い湿地帯に連れて行ってくれます。聴覚過敏の私は、曲を聴くことで様々な場所に行くことができます。  しかし、それらの場所は、曲が終わってしまうと、帰ってこなければいけなくなります。曲の終了とともに、それらの風景は消えてなくなり、もといた部屋の一室に戻ってしまうのです。私は、大人になってからは、曲を聴くことで別世界に移動していた時期がありました。  一方、子どもの頃は曲などなくとも、空想だけでどこにでも行けてしまいました。体操教室に行く前、玄関を出ると外は曇っていました。それは何の変哲もない曇り空でしたが、私は雲の中に飛び込む様子を空想し、雲の中で泳ぐことができました。子どもの頃、空想によって、すぐそばにある別世界に行くことができました。  現在は、3月以降の環境調整が叶っているため、創造的なアイデアや思考が次々と浮かびます。そのなかで、子どもの頃ほどではないにせよ、空想世界に行ってしまうことがあります。医学的には、これは脳の抑制系の働きが鈍くなっているという風に説明できるでしょう。 しかし、それは何とつまらない世界でしょうか。 この記事では、久々に訪れた空想世界での実地観察を通して見えたことを書き綴っていきます。 空想との再会 ゼミでの一件  今、空想世界が再び現れたのには、理由があります。それは、今年の2月にゼミでとてもつらい思いをしたからです。  実は、私を支えてくれていたのは、人生の長きにわたって空想世界でした。先述したように、子どもの頃は頻繁に空想世界に行き、そこで生きることの喜びを味わっていました。中学生になると、暴言と体罰、厳しい校風の学校で不安定になりましたが、それでも数学との出会いを通して空想世界は保たれました。高校の頃も、「天才主義」などのつらい悩みはありつつも、空想世界とまではいかない小さい空想をしていました。  事態が変わったのは大学に入った時でした。履修や事務手続き、および自立の圧力などを通して、否が応でも社会的な自分を認識し、空想することができなくなってしまいました。それによって、空想で発散できていたエネルギーが行き場を失い、パニック発作が頻発するようになりました。大学の...

「ひと」と「ヒト」のはざまで・2023年秋の小エッセイ

 はじめに  この記事は、2023年秋の「心の平穏」のころに書いた文章を書き写すものになります。今の私からみても、当時のこの文章はよく書けていたと思うので、ここに書きます。そのままのコピー&ペーストであり、基本的に改変は行っていません(誤字脱字は修正しました)。 2023年秋の文章  大人の社会には、時たま「ねじ伏せる」という色があるように思います。例えば、一昔前の「頑張ったが通用するのは学生まで」と言う言葉は、労力をねぎらうことに対する欲求やねぎらうことで生じる人と人の和をねじ伏せているように感じます。こうしたどこか人工的な考えに適応できない人は、自分はまだ幼稚なのではないかと考えたり、甘えているだけなのではないかと考えたりし、自分が悪いと考えるようになってしまいます。それでも、いや自分は悪くないぞと思う人は、その原因を性格や人格に求め、仕方のないことだと思うように心をコントロールしていきます。こうして、「自分は○○障害だ」「私はHSPです」と言い、そこにアイデンティティーを求める人が出来上がるように思います。  私が思うに、悪いのは頑張ったその人ではなく、人が心をもつ「ひと」であることを無視した「頑張ったが通用するのは学生まで」というその言葉のように思います。「ひと」である以上、「頑張ったね」と言ってほしい時があるのは、当たり前のことです。そうした「ひと」の側面をねじ伏せる節が、今の社会には少なからずあるように思います。  しかし、時には「ひと」をねじ伏せなければ経済も回らず、仕事も生産性のないものになってしまうのもまた事実です。そのため私は、人はある時は「ひと」になり、またある時は「ヒト」になり、一日のうちで絶え間なく変化していくのがちょうどよいと考えています。大事なのは人が大人・子ども関わらず「ひと」でいられる時間をもち、それを大事にしていけることだと思います。ところが私から見ると、本来は「ひと」であってもよい自分をも「ヒト」に統一しようとしている人を見かけることがあります。中には、それが大人になることだと勘違いしている人もいるようです。頑張った人は、「ひと」のときに褒めてもらえばよいのであって、それなのに「自分はもう大人だから」と、褒めてほしい自分を甘えていると抑圧してしまうのは、大事な自分を傷めつけるような行為のようにも感じます。  現代のいくつ...

大域的自然と局所的自然 -2つの自然が一致するとき-

目次  はじめに あるエピソード  ある日のこと、近所の公園に散歩に行ってきました。  公園にはトイレがあり、私はそこに寄りました。トイレに入る時、父親と子どもの親子連れの方とすれ違ったのですが、彼らはこんな会話をしていました: 「ねーパパ、あのトイレ、『和式』だったよ。家のと違うから、難しかった。」 「和式?今時珍しいな。○○市(公園がある市)も、予算がないのかなwww」  私は、面白い会話だと思いつつ、用を足していました。和式か。確かに、今の家庭のトイレはほとんど洋式なので、慣れない場合は大変だろうな、と思いました。ところが、1か所だけ引っ掛かったところがありました: 「予算がないのかな」 この部分です。これ自体はよくある発想ですが、実に示唆に富んだ言葉だと思ったのです。それは、この言葉が「心ここにあらず」の大人の発想の典型だと思ったからでした。  トイレを出た私は、散歩路の春のさわやかな風を受けつつ、これについて少し考えてみました。 心ここにあらず  もし私がそのお父様ならば、どう返していたでしょうか。 (子どもの言葉)「ねーパパ、あのトイレ、『和式』だったよ。家のと違うから、難しかった。」 (可能性①)「そう、和式だったんだね。確かに、大男のスリッパみたいな形で難しいよね。」 (可能性②)「和式か、パパも子どもの頃、学校によくあったな。そうそう、ハエとかいなかった?和式にはよく虫がいるよね。」 (可能性③)「和式だったんだね。転ばなかった?あそこは汚いから、転んだんだったら一回家に帰って着替えようか。」  すぐに思いつく返答を3つ用意しました。この返答が相応しいかどうかは子どもの年齢によりますが、私がすれ違った子は、これらの返答でもよいような年齢に見えました。  それに対して、「予算がないのかな」という返答(独り言の可能性もあります。)は、次の点において興味深いです: (1)大人の側の主観が前面に出ていること。 (2)目の前の「和式トイレ」ではなく、市の予算という見えないものを見ていること。  特にこの場合は(2)に興味があります。そのお父様は、子どもが目にしていた「和式トイレ」よりも、その場には存在しない「市の予算」を見ていたことが分かります。つまり、今ここに存在しないものを見ている、 心ここにあらずの状態 です。  ...

Geminiとの対話・「名言」という慣習に対する嫌悪感

目次  はじめに  私は、名言という文化になじめません。  これは何も、名言を言った先人たちが嫌いであるわけではありません。それが水族館の魚のように展示され、「水槽」越しに見ている人たちが嫌いなのです。  今日は、かねてから違和感を抱いていた、「名言」の概念に関して苦言を呈する記事になります。なお、これは私の意見であり、正しいことを言っているつもりはありません。 名言の例と違和感 名言の例  ここで言う「名言」とは、業績を残した「偉人」の述べた、影響力のある(とされる)言葉を指します。例えば、 ・Do you love life? Then do not squander time, for that is the stuff life is made of. (人生を愛するか?ならば時間を浪費するな、人生は時間の積み重ねなのだから。) ベンジャミン・フランクリン(政治家)  ・Imagination is more important than knowledge. Knowledge is limited. Imagination encircles the world. (想像は知識よりも重要だ。知識には限界がある。想像は世界を包み込む。) アルベルト・アインシュタイン(物理学者) ・夢見ることをやめた時に、その人の青春は終わる 倉田百三(劇作家) 等は良い例でしょう。私は、こうした言葉の内容を否定するつもりはありません。私もその通りだと思うことは多いものです。 違和感  しかし、私は思うのです。 これはいわゆる「凡人」にも言える 、と。  つまり、いわゆる「どこにでもいる普通の大人」を一人連れてきて、何かを語らせるということを想定すると、こうした言葉の一つや二つは出てくるはずです。あるいは、こう言い換えればわかりやすいでしょうか。名言とは、特別な言葉ではない。 何を言ったかではなく誰が言ったかということが本質にある、ただ普通の言葉である 、と。  ただ「凄いことをした人」が言っただけで、普通の言葉が黄金のようになるのですね。これは、特段珍しいことではありません。 偉人の使っていた日用品などが、オークションの高値で落札されたという例 はいくらでもあります。つまり、対象が言葉かモノかの違いであるだけなのです。  心理学の用語...