大域的自然と局所的自然 -2つの自然が一致するとき-
目次
はじめに
あるエピソード
ある日のこと、近所の公園に散歩に行ってきました。
公園にはトイレがあり、私はそこに寄りました。トイレに入る時、父親と子どもの親子連れの方とすれ違ったのですが、彼らはこんな会話をしていました:
「ねーパパ、あのトイレ、『和式』だったよ。家のと違うから、難しかった。」
「和式?今時珍しいな。○○市(公園がある市)も、予算がないのかなwww」
私は、面白い会話だと思いつつ、用を足していました。和式か。確かに、今の家庭のトイレはほとんど洋式なので、慣れない場合は大変だろうな、と思いました。ところが、1か所だけ引っ掛かったところがありました:
「予算がないのかな」
この部分です。これ自体はよくある発想ですが、実に示唆に富んだ言葉だと思ったのです。それは、この言葉が「心ここにあらず」の大人の発想の典型だと思ったからでした。
トイレを出た私は、散歩路の春のさわやかな風を受けつつ、これについて少し考えてみました。
心ここにあらず
もし私がそのお父様ならば、どう返していたでしょうか。
(子どもの言葉)「ねーパパ、あのトイレ、『和式』だったよ。家のと違うから、難しかった。」
(可能性①)「そう、和式だったんだね。確かに、大男のスリッパみたいな形で難しいよね。」
(可能性②)「和式か、パパも子どもの頃、学校によくあったな。そうそう、ハエとかいなかった?和式にはよく虫がいるよね。」
(可能性③)「和式だったんだね。転ばなかった?あそこは汚いから、転んだんだったら一回家に帰って着替えようか。」
すぐに思いつく返答を3つ用意しました。この返答が相応しいかどうかは子どもの年齢によりますが、私がすれ違った子は、これらの返答でもよいような年齢に見えました。
それに対して、「予算がないのかな」という返答(独り言の可能性もあります。)は、次の点において興味深いです:
(1)大人の側の主観が前面に出ていること。
(2)目の前の「和式トイレ」ではなく、市の予算という見えないものを見ていること。
特にこの場合は(2)に興味があります。そのお父様は、子どもが目にしていた「和式トイレ」よりも、その場には存在しない「市の予算」を見ていたことが分かります。つまり、今ここに存在しないものを見ている、心ここにあらずの状態です。
これは私が偶然聞いた会話なので、そのお父様の言葉を否定するつもりはありません。しかし、公園という楽しい場に来ても、「市の予算」が頭をかすめたという事実が、滑稽で面白いと思ったのです。
自然のいろいろ
お父様の返答も自然の一つ
私は、そのお父様の「予算がないのかな」という返答が嫌いではありません。これもまた、彼なりの自然な回答だからだと思うからです。
むしろ、日々経済や社会情勢、仕事のことと向き合っていらっしゃるそのお父様に、私の考えたような返答をするほうがいい、というのは無理ではないでしょうか。私を含め、人は環境の生き物なので、そうした物事に日々触れていれば、目の前の和式トイレよりも「予算」を見てしまうのは、きわめて自然なことです。
しかし、同時に違和感を覚えてしまうのも事実です。トイレそのものではなく、予算というものを見てしまう点において。これは、私ではない大人が聞けば、人によっては「まあよくある話だけど、大人は汚いよね」ということも言いそうな気がします。
ここで、少し立ち止まって考えます。お父様ご自身の自然に従って発せられた「予算」の言葉が、人によっては「汚い」と評されてしまうというこのことを観察してみましょう。
お父様は、あくまでも自身の自然に従って予算に言及したと考えられます。つまり、自然に従っているという点では、このお父様も息子さんと変わらないのです。それなのになぜ、お父様には「汚い」と言われてしまう余地があるのか。これは、子どもと大人で住んでいる「自然」が異なると考えれば、辻褄が合います。
子どもには子どもの自然があり、大人には大人の自然がある、ということです。
大域的自然と局所的自然
では、その自然はどのような構造をしているでしょうか。子どもの自然と大人の自然をそれぞれ帰納的に言語化して特徴を抽出してもよいですが、ここではもっとダイナミックに考えてみます。
まず、人の心の構造に着目します。以前の記事でも書いたように、心は「核」と「殻」に分かれていると考えられます。これは正しいモデルなのか分かりませんが、ここで一旦核と殻のモデルを足掛かりにします。
ここでは、このモデルのうち、「心には幼い頃から普遍的に保たれる部分がある」ことに着目します。殻で守られている核の部分ですね。いわゆる「三つ子の魂百まで」という言葉のように、幼い頃の愛着や行動パターンが一生続く、という考え方です。
核と殻の記事では、心には「核」と呼ばれる中心構造があり、それが社会化に伴って発達する「殻」に守られ、成長とともに殻が成長していく、というモデルを考えました。ここでいう「核」が、「三つ子の魂」に他なりません。
そして、三つ子の魂が決める、その人にとっての最適な(固有の)自然のことを、一生続く広い自然という意味で、大域的自然と呼ぶことにします。いわゆる「自分らしさ」というのは、この大域的自然が満たされている度合いのことを指すのでしょう。
一方、その時々の環境によって決まる、移ろう自然のことを局所的自然と呼ぶことにします。冒頭のお父様は、大人社会という局所的自然に従っていたので、「予算がないのかな」と言ったと解釈できます。
ここまで概念を整備すると、大人の自然と子どもの自然が異なる理由が分かります。子どもは社会経験が少ないため、自分固有の大域的自然に忠実で、他方、大人は社会経験やルールの中で、局所的自然に忠実になっているということです。この違いが、2つの自然の違いを特徴づけています。
考察
局所的自然の画一性
このように考えると、まず「局所的自然は多くの場合画一的であること」が分かります。人は社会の中で生き、社会にはルールがあります。そのため、ほぼすべての人は社会に最適化されて生きています。したがって環境も社会の作ったものになるため、環境によって変わる局所的自然も、大衆向けのものになる場合が多いです。
多くの大人が、社会によって最適化された局所的自然に従って生きていることになります。これが、常識や世間体といった共同的な意識を生み出しているのではないでしょうか。
大域的自然の多様性
他方、大域的自然はその人の幼い頃の行動パターンや、生まれ持った脳の特性に依存しています。すなわち大域的自然は、十人十色なのです。子どもの頃の性格傾向はこの大域的自然を反映していると考えられます。たとえば、おとなしい子、やんちゃ坊主など、そうした性格の差異は、彼らの大域的自然の表現型だと考えられるのです。
いわゆる「自分探し」が難しいのは、社会の中で画一化された局所的自然に従いながら、自分固有の大域的自然を探すことの難しさに他ならないのではないでしょうか。また、思いやりや愛、生理的な欲求などの「人として最も基本的なこと」は、分類すれば大域的自然に属すると考えられます。ただ、局所的自然の画一性と違うのは、その表現の仕方が十人十色であるということです。すなわち、多様な思いやりの感性、多様な愛着パターンがあるということで、その違いが個性や恋愛パターン、ひいては争いなどにつながっているのだと考えられます。
大域的自然と局所的自然の一致
少なくとも私は、自身の大域的自然と、今従っている局所的自然が一致しているときに、最も「生きていること」を実感します。すなわち、充実を感じるのはこの2つの自然が一致している環境下においてです。心理学でいう「自己実現」とは、この2つの自然が一致するような生き方を確立できることを言うのではないでしょうか。
今、私は地元で療養中です。地元の小路を歩くと、その時の空気が大域的自然と一致しているように感じます。私は大学7年間、物理学を学んできました。かつては、自然を西洋科学で解き明かすことがすべてだと思っていました。しかし、今思うのは、それがすべてではないということです。私は、生の大自然と触れ合い、それを五感で感じているときに、自身の大域的自然と局所的自然の一致を感じます。
大域的自然と局所的自然の一致が自己実現なのだとすれば、大人になることというのは本来、自分の大域的自然を見出し、それを実現できる局所的自然に身を置くことを言うのではないでしょうか。私も、そのためにこの休学期間を使い、自身の大域的自然をもっと理解し、自分に合った局所的自然を選択できるように日々を歩んでいこうと思います。
最後に
今回は、とある親子の会話から思考を広げ、大域的自然と局所的自然について考えてみました。これは現在では仮説にすぎないので、今後、様々に文献等を検討して、この論考を深めてみたいと思います。
最近は思考の多動がよりすさまじくなり、こうしたアイデアが次々と湧くようになってしまいました。このブログも、当面は、そのアイデアを集積する場として活用したいです。