287回のパニック発作と、109万6725文字の文書たち・大学7年間の軌跡

目次

     はじめに

     この記事では、私の大学7年間の歩みを紹介しようと思います。なお、2作目にして約4万文字に至るこの記事は、未来の私に送るバイブルの意味も込めて書きました。書くことが止まらない私の気質を反映した重厚な内容になるので、すべて読むことはお勧めしません。ご興味のある方は、勿論読んでいただくことを歓迎いたします。


     今、タイトルと冒頭の一文を読み、「大学は4年間では?」と思った方もいらっしゃると思います。私は、主に浪人の頃から発症した慢性的なパニック発作によって(現在、主治医はこれを「発達障害の2次障害」と結論づけています)、通常は4年かけて卒業する大学を7年かけて卒業しました。と言いつつも、これを書いている現在(2026年3月19日)時点で学位記授与式はまだで、今日からちょうど1週間後に行われ、それに出席する予定です。



    7年間の内訳

     大学7年間は、2019年度~2025年度にわたります。このうち、2019年度の終わりと2020年度の11月までは休学し、2022年度も前半は休学していました(この時点で、2年余計にかかっています)。また、2023年度は授業の負担が増えたので2年に分けて科目をとりました。こうして、通常の4年間に加えて3年間、余計にかかっていることになります。具体的には、

    ・1年次を2年間

    ・2年次を2年間

    ・3年次を2年間

    ・4年次を1年間

    やったことで7年になるというわけです。研究活動が始まった4年次のみ1年で(ストレートに)進めたのは、勉強よりも研究のほうが精神的負担が少なかったからかもしれません。


    大学7年間で学んだこと

     私は、物理学を専攻して大学時代を送っていました。大学の専門課程では、量子力学や統計力学と出会い、数式によって奏でられる自然のオーケストラに感動していました。私は、休学などしましたが、常に「学びたい」思いは強くあり、何年かかってもよいのでこの学びを完遂したい、と思っていました。その思いは成績にも反映され、例えば私の専門科目の平均点は90点(100点満点)を超えています。


     しかし、大学7年間で学んだのは、好奇心をそそられる物理学や自然科学よりも、自分の病気(ASD、パニック)との向き合い方でした。授業やレポートに取り組む以上に、自身の精神的・身体的問題に向き合っていました。そして、この7年間のうち卒業を目前に控えた2月、3月(今)の2か月で、それまで向き合い続けてきた自分のこと、得た知識などが一気につながり、今は自己理解においてかつてないほどの高みにいるように感じます。この記事は、その自己理解の集大成でもあります。高校の頃は、数学と物理のことしか考えない理論物理学者になって俗世と離れて暮らしたい、と漠然と夢見ていましたが、今の私は、その夢を、かつて夢にも思わなかった「自己理解」という方面から叶えられそうに思います。それほど、自己理解が深まるたびに、これまでの自分との一貫性、反対に理解の浅さにも気づき、今はそれが徐々に統合されつつある実感です。


    大学7年間の事実

     では、具体的に大学7年間はどの様だったかと言うと、簡単に統計的事実を述べれば次のようになります:

    パニックについて

     私は、主に抑圧していた心の声(訴え)や過去の出来事の想起から来るパニック発作に苦しんでいました。言語性IQが130を超える私は、いくらつらい時でも自己分析を絶えず行ってしまい、身体感覚や本音を抑圧してしまう癖があります。パニックになる直前、自分の行動の数手先まで読めてしまい、パニックになるといかに周りに被害を与えるか、ということも目に見えてしまうので、結局我慢できずにパニックになる自分を見ているもうひとりの自分はいつも苦痛でした。

     今年の3月の受診前に、PCに残っている記録や日記を頼りに、大学7年間のパニックの回数を全て書き出してみました。すると、実に287回、パニックを起こしたことが分かりました。なお、これは記録にある限りのデータなので、本当はもっと多いかもしれません。

     ここで、パニックとは次のような病態を指します:動悸が止まらない、過去の出来事の執拗な想起、思考促迫の際限ない悪化、無表情のまま暴れる、固まって動けなくなる、人に当たってしまう、叫ぶ、など

    「心の文書」について

     どうしても苦しい時や、何かを思いついた時などに、私はパソコンのメモ帳やWordに自分の考えを書き記すことがあります。そうしてまとめた文書は、パソコンのデータが消えてしまった2020年以前は残っていませんが、2021年以降はすべて保存してあります。今回、その文書の文字数はどのくらいだろうと気になったので、すべてのファイルを開いてカウントしてみました。すると、総文字数は実に109万6725文字でした。これは1日に平均して600文字程度書いている計算になります。実際は、書く日もあれば書かない日もあるので、1回に書く文字数はさらに多いと思います。

     私がこうして自分の心について考えることを、私の造語で「精神解析」と言います。「精神分析」と語感が似ていますが、両者は全く別のものです。



    大学7年間の軌跡

     本記事では、私の大学7年間について、ザックリと振り返ってみることにします(「ザックリと」と書いたのは、この内容自体ほぼすべて記憶を頼りに書いているからです。引用などの特別な場合を除いて、資料は参照していません。)。この章では、今まで悩んできたことやその時の精神・身体症状を通して、7年間を1年ごとに振り返ってみたいと思います。この記事は、未来の私がパニックで悩むことを減らせるように書く備忘録でもあります。途中、ショッキングな描写が続きます。すべて真実ですが、不快な思いをされた方は、ブラウザバックをためらわないで下さい。

    2019年度 ~激動と没落の年~

    学生支援の先生に感じた違和感

     2019年は、私が大学に入学した年でした。大学は日本最難関の理系大学と言われており、そこで学ぶのが夢だった私は、2018年に不合格だった時はすぐさま浪人を決めました。2019年3月9日、私は合格発表を大学まで見に行き、そこに受験番号を見つけた時は大変喜びました(しかし、泣きませんでした。その理由は後述します)。

     入学手続きをしに再び大学に行った3月14日、私は大学の学生支援の先生と出会いました。その日、発達障害やその特性についてその先生と語り合ったことを覚えています。今まで、私が様々に工夫を凝らして自分の病状を訴えても、私の症状を黙認された地元の主治医とは違い、知識の豊富な学生支援の先生に感動しました。ところがこの日、一つ気になることを言われました:

    「これからは、親御さんと離れていきましょうね。」


     実は、私は母や伯母などの支援者がいなければ、一人では何もできないことが多いです。公の場で数時間過ごすと、パニックになったり意識を失ったりしてしまうこともありました。その支援の先生に、「これからは一人で行動しましょう」と言うようなことを言われ、私は一瞬、違和感を覚えました。


    授業開始と最初の挫折

     4月になり、授業が始まりました。それに先立って行われたオリエンテーションで、副学長の先生の一人が登壇し、全体に次のようなことを言いました:

    「君たちは、つい数か月前まで高校生だった。そんな顔をしている。しかし、君たちはもう大人だ。誰も守ってくれない。」


     ここでも、私は強烈な違和感を覚えました。すぐさま胃が締め付けられるような痛みを感じ、冷や汗が出てきました。私は、中学で生きることに絶望して以来、誰かの助けがなければ何もできませんでした。悪い思考が暴走し、道路に飛び込んだこともありました。しかし、大学生になると、もう誰も助けてくれないのか。私は、自分がいくら背伸びをしても届かないところに、大学生活を感じました。

     この言葉を言われても静かに聞き入っている、同級生、その場にいらっしゃった先生方にも、殺伐とした違和感を覚えました。そして、高校時代に「お前らもこれから社会の荒波にもまれるだろう」と言った校長講話の一幕を強烈に想起しました。

     4日、最初の授業「立志プロジェクト」が始まりました。理系の大学で受ける文系の授業はどういうものだろうかと思っていました。初回の授業は、有名な池上彰先生の講演でした。


     授業終盤、司会の先生があることを強調し始めました。それは、理系バカではいけない、という言葉でした。

     理系のことだけしかできないようでは、社会で通用しない、ということを口酸っぱく言い始めました。その中でも、この言葉は強烈なトラウマになっています:

    「理系のことばかりやってる奴は、チコちゃんに叱られるぞ!」

     なんてひどいことをいうのだ、と憤りました。私は、中学時代から暴言、体罰のある環境で生きるか死ぬかの葛藤を何度も経験し、社会や人生のことを散々考えてようやく、自分は理系の人間であり、そこで自己表現することで人々に貢献することしかできない、と結論づけました。当然、視野を広くもつには理数系に偏ってはいけないことも自覚していましたが、それでも、自分の本質は理数系にあるのだ、と納得していました。しかし、そんなものでは、チコちゃんに叱られるような見苦しい大人になる、といいます。

     それはまるで、私の半生がえぐられて壊されたような一言に感じ、私は耐えきれずにパニック発作を起こしました。授業終了まで何とか耐え、授業が終わるや否や、立志プロジェクトの担当の先生(私のユニットの先生)のもとに行きました。その先生と目があった途端、私は泣き崩れてしばらく動けませんでした。

     この時の「チコちゃん」という言葉は、その後、私の大学生活を大きく変える悩み・子ども至上主義の引き金になります。


     この後、私は地元に戻りました。土曜日、政治家の討論を映したニュースを見て、「こんなどす黒い大人の世界に入っていくのか」と絶望し、反射的に包丁を手に取って手首に刺そうとしてしまいました。伯母に止められて一命はとりとめましたが、この時のようなパニックは以後、7年間続くことになります。

     大学に入学したタイミングで、私は最初の挫折を経験することになりました。「理系に偏っていてはいけない」という、それまでの生存戦略を閉ざされる挫折を。


    「ヒト化」という最初の言語化

     5月、私はこの2か月間の苦しみを初めて言語化できました。それは、「ヒト化」と言う造語でした。

     ヒト化というのは、満員電車の中でうつろな目をしている大人や、好奇心を失って論述ばかりしている大人、日常から発見をしなくなってしまった大人のことを怖がって言葉にしたものでした。子どもの頃の、自分から進んで探究し、時間を忘れて遊び、温かい愛の中にいた時期を「にんげん」と言うのならば、私の目に映る大人は皆、そうしたエネルギーを失った「ヒト」だ、と思ったのが最初でした。

     私は、この言葉を考えた時、自分がまだヒト化されていないことに気づきました。そして、私が副学長の言葉や立志プロジェクトの司会の先生の言葉で怖がっていたのは、ヒト化されることではないか、と気づきました。こうして、私はヒト化と言う造語を用いてひとまず、悩みを言語化することに成功しました。


    新たな主治医

     7月、私は新たな主治医をもつことになります。4月~7月のこの間も、パニック発作を繰り返していた私は、新たな主治医に期待していました。大学から紹介された病院は、日本でも有数の発達障害の研究施設で、私はそこでの出会いを楽しみにしていました。科学的な分析と客観視の中に、自分の苦しみの答えがあるという直感を信じて。

     7月3日、初診に向かいました。私は、これまでの悩みを話すと、その新しい主治医は「地元にいた時とは、別の問題が起こっている」とコメントしてくれました。私は、その瞬間に、自分の悩みが伝わったように感じ、嬉しくなりました。

     8月下旬、その病院にてIQテスト(WAIS-III)を受けました。全検査IQは124で、特に言語性IQとワーキングメモリーが突出して高かったです。しかし、2014年(中学3年時)に受けた時はワーキングメモリーが147あったので、あまり驚きませんでした。


     主治医は、私の悩みを聞いて下さり、嬉しかったです。しかし、診察時間が短いのは違和感でした。この時、静岡の元主治医のところにも行っていましたが、そこではカウンセリングのように悩みを聞いてくれるだけで、特に収穫はありませんでした。

     しかし、この様子は9月の受診の時に一変することになりました。


     9月の受診時、それまでのように悩みを話していると、主治医が「ヒト化」の話の時に私の言葉を遮りました。そして、

    「ヒト化とかおっしゃいますが、これからはそういう考えは通用しないでしょう」

    と言い始めました。私は強烈な違和感を覚えましたが、強力なメタ認知がパニックを制止し、主治医の話を聞きました。主治医はこう続けます:

    「これからは、親元を離れて自立していきましょう。あと半年~1年で、そうしていきましょう。」

     言葉を失うような胸の苦しさを覚えました。あの時「親御さんと離れていきましょうね」「君たちは大人だ」と言っていた人々の影が、すぐそこまで迫っている感覚がしたのです。同時に、浪人時代まで生きることに耐えてきた自分が死んでいくような感覚も覚えました。

     受診から帰宅し、私は母を蹴ってパニックになってしまいました。わめき、包丁を手に取ろうとした時、止めてくれた母を蹴ってしまったのです。主治医に否定された「ヒト化」という言葉は、逆にどんどん鮮明なものになっていきました。


    笑うことが嫌いになった

     この頃苦しんでいた症状のひとつに、「自分が笑うことが許せなくなる」というものがありました。当時はその理由を言語化できず、笑ってしまうと反射的に平手で自分の顔を叩いていました。今はその理由が漠然と分かるようになりました。それは「笑ってしまう自分は、社会に殺されゆく自分がそれでも生きようとしている無力で健気な営みを象徴しており、それがあまりにもかわいそうだから、自分がそうであることを許せない」というものです。

     私は、自分が笑うことすらも許せなくなるほど、追い詰められていました。そして、笑うことに対するこの嫌悪感は、2023年ごろまで続くことになります。

     また、この時私は笑うことが嫌いになっていましたが、同様の「自分がかわいそう」と言う感覚はずっと存在していました。その最たる例が、大学合格時に泣けなかったことです。大学合格で泣くのは、受験という、法律で定められた無機質な力によって外から操られているようでかわいそうだ、という感覚があり、こうした感情表出はできませんでした。それはまるで、子どもの頃の何でも自分から探究していた自分に失礼であるように感じ、そうした外力によって心が変動する自分を、私は認められませんでした。もしかすると、私の執拗なメタ認知と自己分析は、こうした自身の特性をかばう為に発達した代償なのかもしれません。



    地元の心療内科の閉所と休学

     笑うことが嫌いになり、新たな主治医や学生支援の先生のほとんどの人が「自立」という言葉を -口裏を合わせるかのように- 言っていたこの時期、最後の一撃を喰らうことになります。それは地元の心療内科の閉所です。

     元主治医は、症状を黙認していたとはいえ、私の話を親身になって聞いて下さりました。そして、私の高校時代は高校にも出向き、つらさや困難を先生方に説明して下さりました。その心療内科が、2019年11月をもって閉所になってしまうことを、その先生から聞きました。

     私は、血の気が引くような絶望を感じました。しかし、メタ認知が私をコントロールしており、私はその場ではパニックになりませんでした。その後もメタ認知は持続し、帰りの車中で『アメージング・グレイス』を聞きながら呆然としていたことを憶えています。

     パニックは、メタ認知の効力が切れた1週間後にやってきました。小学生の頃に描いた、お気に入りの絵を破ってしまいました。そして、物を投げて暴れてしまいました。その日はその後上京しなければいけなかったので、泣きながら動転している母と一緒に、新幹線に乗りました。

     そこから2週間後の11月26日、私は1度目の限界を迎えることになります。期末試験を終えたその日、アパートで自殺未遂をしてしまいました。パソコンの電気コードで、首を絞めつけてしまい、息が止まる寸前で母に止められました。その後、何が何だか分からないまま机をひっくり返してしまい、東工大合格を果たしたシャープペンシルを折ってしまいました。この嵐のような一件の翌日、学生支援の先生の所に行くと、支援の先生は顔色を変えて休学を勧めました。私は、この時ばかりはその通りにするしかありませんでした。


    休学中もパニックは絶えなかった

     12月上旬、休学願について主任の先生の承認をいただくことができ、私は1年間休学することにしました。中旬のある日、アパートで初めて、麻婆豆腐を一人で作ることができました。しかし、「こんなことができてしまったら、自立させられてしまう」と恐怖を感じ、私はそこでもパニックになってしまいました。幸い、この時のパニックは軽症で済みました。

     その後、休学を決めて初めての通院がありました。主治医の所に行くと、主治医はその時の苦しみにようやく気付いたようで、以後表立って「自立」を言うことはなくなりました。それでも、診察の重苦しい雰囲気には慣れられませんでした。


    祖母の家に泊まる

     実は、私は浪人生活(2018年度)の大半を祖母の家で過ごしました。それは、私が自宅での浪人生活に耐えられなかったからです。浪人時代、私がうなだれていると、母が決まって「この期に及んで何を悩む?」「下ばかり向いている人は、大学は欲しくありません!」と言ってくるので、その干渉に耐えられなかったのです。私は浪人の夏、祖母の家に逃げ込み、そこでみるみる力をつけて大学合格を果たしたのでした。

     休学中のこの時も、何度か母と言い争いになりました。私の生活態度や、自分探しをしていることなどで、主に言い争いになりました。

     そのような中、2020年の成人の日に、私は自身の2019年度の不安定の全体像を客観化する文書『重要仮説・2019年度不安定の本質的原因』を書き上げました。成人式はストレスになると見越していたので、私は成人式には参加しなかったのですが、この文書を書けたことは、私にとっての「成人」そのものでした。文書の「以上を踏まえて、今年度の不安定とは」という節の「まとめ」の部分を引用します:

    自分も、冒頭のような「一人の大人」になる“魔法”をかけられている実感がわく中で、それに対抗するため変人になろうとしてもがき苦しむものの、それまでの経験などから、それはもはや逃げられるものではないと感じた際に発生する、抑うつの波と、爆弾が破裂したように襲う絶望感(p.10)

     

      この時、冷静になれて自分を言語化できたことはほとんど奇跡でした。なにしろ、笑うたびに自分を叩くほど当時の自分は疲弊していたので、この12ページ(10848文字)に及ぶ文書を書けたことは、当時の状況を鑑みればほとんど不可能だったように思います。


     しかしその後、今度はこの文書のことで母と言い争いになりました。確かにこの時の私は、生きることにほとんど絶望していたので、「金さえ払って法律を守っていれば何でもいいじゃないか」と言うようなことをよく言っていました(2020年1月ごろ)。しかし、感情豊かな母はそれを許さず、「そんな冷たい人生に何の意味がある」と言ってよく対立していました。私はここでも、何度かパニックを起こしてしまいます。


     1月17日、ついに大胆な行動に出ました。アパートを飛び出し、祖母の家に逃げ込んだのです。ちょうど浪人の夏にそうしたように。すると、母に気遣ったりメタ認知をフル稼働したりする必要がなくなったため、一気に気が楽になりました。そこで、前文書の注釈である2つ目の文書『続-重要仮説・2019年度不安定の本質的原因と展望』(14ページ、14205文字)を約2時間で書き上げ、それを通院に持参しました。それを読んだ主治医が、ようやく「今はおばあさまの家で休んだほうがいい」と言って下さり、私は以後3月下旬まで祖母の家で休むことになりました。


     祖母の家に泊まっている時は、頭がとてもさえわたり、今まで分からなかった疑問がたちどころに分かってしまうほか、創造性も爆発してアイデアが沸き起こります。この時は、3曲ほどの曲を作曲したほか、毎日短歌を詠んで、数学の難問(1問が1年ほどかかるもの)を2問ほど解いて遊んでいました。この時作った曲の一つ、『ねこっち曲アレンジ』は、今でもスマホのアラームに用いている曲です。


     自分でも驚くような創造的な生活に、時間がいくらあっても足りないような感覚を覚えました。2019年度の最後は、こうしたひと時で過ぎていきました。


    2019年度の最終盤

     2019年度は、最後は華やかなひと時を過ごせましたが、まだ傷は癒えたわけではなく、むしろ悩みの多くはこの時の頭脳の活性化によって深まっていきました。その一つ、子ども至上主義という悩みは、なかでも深刻なものでした。2019年度の最初に感じた「汚い大人になっていくさま」は多くの思考を重ねるうちに解消どころか確信に変わっていき、私は大人になっていくことが一層怖くなりました。なぜ、純粋な子ども時代から外に出されてしまい、私欲や金銭的欲求に巻き込まれ、生きることに苦しみ、挙句の果てに、純粋さを失った後に子どもに純粋さや自然を教わらなければいけないのか。なぜ、経済や良心と言った「当たり前の」概念が大人になると自分の敵のようになるのか。この違和感は、いったい何者なのか。否が応でも成長してゆく自身に戸惑いを感じ、子どものような自然性を失うくらいならば死んでやる、という思いはどんどん膨らんでいきました。


     これは、その後の大学生活全体にわたって影響を及ぼす考え方になります。その解消には、2023年度の『大人になることの再定義』という発想に至るまで、実に4年ほどかかりました。また、当たり前の概念が敵になっていくような思いは、2024年10月の『低位と高位の概念』の発見にいたるまで、言語化できませんでした。そして、子どもの自然さ、純粋さに憧れることは、のちに(西洋の)科学に対する私の盲信を打ち壊し、東洋の思想や自然との共存に目覚める原動力になります(2026年2月)。


    2020年度 ~止まない嵐~

     年度が明けた2020年4月。この時、世間は新型コロナウイルスの猛威によって、パニック状態に陥っていました。外出はことごとく自粛され、3密の回避も叫ばれる中、私は家にこもって数学と精神解析に明け暮れていました。ちょうど、この頃の生活はニュートンが疫病から逃れるために実家で生活していたことを彷彿とさせるものでした。


    ロンドンで腺ペストが大流行した当時、ケンブリッジ大学の学生だったニュートンは、大学の休校を受けて、実家のリンカーンシャーに身を寄せ、研究を行っていました。

     

    5月・最悪のパニック発生

     5月12日のことでした。この日、弟の寝室の枕から血を吸ってパンパンに太ったマダニが出てきました。その後、私と母と弟は用事で祖母の家に行きましたが、母が弟にかゆいところがないか訊いた時、弟は苛立ちながら「そんなに心配するな!俺が死ぬっていうのか?」と母に怒っていました。当時、私のことや同じく精神状態を崩していた父のことで疲弊していた母は、その時、泣いていました。

     それから1時間後、弟が「もう、帰るわ」といって祖母の家から帰ろうとしました。私はそれを見て顔色が悪くなりました。すると、弟は怪訝そうに私を見て、「どうしただ」と言いました。その時、再びパニックのスイッチが入りました。


     近くにあった瓶を弟に投げつけてしまいました。幸い、瓶は壁に当たり、弟には当たりませんでした。そして、


    「(あまりにもひどい言葉のため、書けませんでした)」


    自分でも信じられない暴言が、とっさに出てきました。私は、母を泣かせた弟が許せなくなり、この言動に至ってしまったのでした。


     弟は動物を警戒するような形相で私をにらんで、その場を立ち去りました。その後、廊下で私は


    「死ぬべきなのは俺のほうなんだ!頼む、今すぐ首を切ってくれ!」


    と癇癪を起こし、母と伯母に止められました。この後、再びメタ認知が起動して冷静になってしまった私は、その夜、泣きながら弟に謝りました。このことは、自分で起こしたことでしたが、今でも強烈に想起することがあります。


     この1週間後、私は予約外で主治医のもとに行きました。特に診断はありませんでしたが、深刻な事態であると受け止めていただき、私は入院のウェイティングリストに入りました(結局、入院には至りませんでした)。


     この日を境に、私は寝込むようになりました。


    静かな夏

     この年の夏は、うなだれて過ごしていました。感情も平板化し、興味関心もなくなっていた。唯一、心臓病の外来で受診した病院で見た『カンフー・パンダ』が印象に残っていました。


     気晴らしにカブトムシを採りに行き、数匹飼ってみても気分が晴れず。しまいには、自分なんかに飼われているカブトムシがかわいそうだと、すべて逃がしてしまいました。


     趣味の数学にも身が入らず、弟の受験勉強を手伝うこともありましたが、問題が解けて楽しいと感じることはほとんどありませんでした。中学・高校時代、そして大学に入ってからの数々の事象が想起され、生きた心地がしない日々を過ごしていました。ただひたすらに、静かな夏でした。



    少しずつの回復

     しかし、秋に入ったころから、何かの諦めがついたのか、少しずつ回復していきます。9月24日、正弦関数のテイラー展開で遊んでいた時、突然、ある数学の問題を閃きました。ここではその問題の詳細は割愛しますが、当時は「面白い問題を閃いた」と思い、しばらくそれについて考えていました。不思議なもので、その後体調がだんだん回復していきました。


     そして10月、11月と過ごすうちに、近所の幼稚園児と親しくなりました。その子と遊んでいるうちに、気分が晴れる時もありました。当時、「子ども至上主義」が深刻でしたが、その子と遊んでいる時はそれが気になりませんでした。また、同時期に『カンフー・パンダ』をもっと見てみたいという考えも湧いてきたので、続編である『カンフー・パンダ2』と『カンフー・パンダ3』を見ました。この時、物事を考えるには科学だけではなく、他の方法もあることを次第に分かっていきました。


     休学最終盤の10月、11月は自然な意欲も戻り、自身の精神的状態を気にせずに過ごせる時もありました。12月、予定通り復学届を提出し、学業に復帰します。



    メールや事務手続きを覚える

     実は、この休学期間中に運命的な出会いがありました。それは新しい学生支援の先生との出会いです。


     かつての先生は、「親御さんと離れていきましょうね」ということを口酸っぱく言ってくる先生でした。2019年7月24日には、「あなたは何でもかんでも親御さんにやってもらっていた」と罵られたこともありました。しかし、2020年6月に出会った新たな先生は、そうしたことを言わず、逆に私が母と暮らしていることを応援して下さりました。


     ある時は、その先生と学問について語り合い、またある時は人生観について語り合いました。そうしたことができることが嬉しかったです。


     そのような中で、私はその先生の手ほどきで、次第にメールや事務手続きの仕方を覚えていきました。今でも多くの先生方に褒められるメールの書き方は、この時にその先生のおかげで覚えることができました。また、今の文章力も、この先生と出会ったこの時期に培ったものでもあります。


     私は、学生支援の先生との面談が楽しみになりました。「今日はこれを話したい」という自然な欲求も生まれ、それは間違いなく、その後の回復に寄与していたことでしょう。メールと事務手続きを覚えた私は、その後、できることが一気に広がりました。


     復学する準備は、淡々と整っていきました。


    1年時最後の第4Q

     こうして迎えた1年時最後の第4Q(クォーター)は、学問の楽しさに改めて気づき、かつてない成績を修めることができました。GPAという数値は、3.53でした。実はこの記録はその後塗り替えられることになるのですが、この数値を記録したのはまさに回復の兆候でした。

     この学び方で良い、という確信も得ることができ、2020年度中、止まなかったパニックという嵐も、次第に落ち着いていくようにも感じました。このまま、真の意味で大学生になれそうだ、と思いながら、この時は生活していました。1年時最後の一大イベントである「系所属」においても、第一志望の物理学系に所属することができました。あらゆることが、良い方向を向くようにも思えました。

     しかし、これは今思えばつかの間の安定でした。


    2021年度 ~学びの深化~

     PCに文書の記録が残っている、2021年度に突入します。以後の記述は、当時書いた文書も適宜参照しながら行うことにします。

    レベルが上がった授業

     物理学系に所属し、専門科目の授業が始まりました。中学の時の先取り学習である程度のことは知っていたものの、本物の専門科目は圧倒的に深いものでした。

     特に「電磁気学」は面白くも苦戦したのを覚えています。中学の頃は漠然と理解していた「表皮電流」や「ベクトルポテンシャル」をしっかりと学び、さらにそれらを用いた演習にも取り組みました。2回に1回出題されるレポートが重厚で、当時はよく「物理相談室」という部門にお世話になって問題を解いていました。

     当然、このレベルの変化は精神状態にも影響することになります。ちょうどこの4月、弟が大学に進学し、家族のメンバーが一人減ったことも相まって、精神状態が崩れていきました。弟には、2020年の5月に大変酷いことをしてしまいましたが、私は弟が好きでした。そのため、この時は喪失感でパニックを起こすことがありました。しかし、良くも悪くも物理学系の授業はハードで、そうした混乱は打ち消されていました。


    自宅での生活とパニック発作

     この頃は、祖母の家にはあまり行かなくなり、自宅で生活していました。自宅では、相変わらずパニック発作が頻発しており、「何を悩んでるの?」と声をかけてくる母とよく衝突していました。中でも深刻なパニックが6月11日のもので、「人間なんか、大嫌いだ!」と言って暴れた私に母が「ひどいねぇ!こんな子がわが子だなんて!」と言い、その時に壁を蹴って穴をあけてしまいました。この日は、その後大声を出した私に対し、父が「お母さんを殺そうとしている」と勘違いし、警察の方にお世話になったことを覚えています。

     授業はどんどん高度になり、ついには中学時代に知らなかった未知の領域に突入しました。留数定理、ハンケル変換、ルジャンドル陪関数、・・・。前述の父との一件の日も、演習問題がどうしても解けずに大声を上げたのを、父が暴力沙汰だと勘違いしたのでした。

     それでも、この時の忙しさによって精神不安定は誤魔化されていました。夏休み前に起こった深刻なパニックはこの1度だけでしたが、比較的軽度のものはこの時期、月に4、5回は起こっていました。

     主治医には、パニックについて粘り強く相談していましたが、見立ては「発達障害の2次障害」の一点張りでした(これは今でも同じです)。ある時は「パーソナリティー障害ではないですか」と申し出たこともありましたが、「そんなことはない」と言われ、今思えば関係のない薬を大量に処方されました。この時、私は次第に医学に限界を感じ始めました。そして、この頃のこの思いが、のちに「物事を科学だけではなく文学、博物学的など多面的に考えること」の重要性の発見に至るきっかけになりました(2025年ごろ)。


    夏休みと教養卒論の執筆

     この後、夏休みに入りました。夏休みは弟が帰省し、一緒にサッカーをやるなどして楽しみました。また、この年から夏休みに毎年電子工作をするようになり、この年は「赤外線リモコン」を自作しました。半田付けが終わり、解析したテレビの信号をプログラミングして電源を投入した時、テレビがついた感動を今でも覚えています。

     9月に入るころ、弟が再び大学のある市に戻っていきました。しばしの別れだと分かっていつつも、この時は泣いてしまいました。あれだけ泣くことが嫌いだったのが、不思議なほどこの時は泣けました。

     夏休みの後半は静かに終わり、明けた第3Qから「教養卒論」と言う授業を受けることになりました。この授業は3年生向けの授業でしたが、学籍番号が3年生と同じものだった私は、2年次を学んでいましたが他の3年生と一緒に授業を受けました。

     教養卒論では、悩んできた「子ども至上主義」をテーマに書くことに決め、それを楽しみにしていました。当時、まだ子ども至上主義は完全に克服していませんでしたが、それを克服することも夢見て、展望の意味でも書いてみたいと思い、授業に臨みました。


    激動の第3Q

     迎えた第3Qは、授業がさらに高度かつ難解になりました。この時、初めて「量子力学」を学びました。ディラックはどのようにしてブラケット記法を閃いたのかと思いつつ、この時は難解な数式に圧倒されて学んでいました。また、電磁気学もさらに難しくなり、特に「リエナール・ヴィーヘルトポテンシャル」の計算に苦戦した記憶があります。

     そのような第3Qは、少し楽しみもありました。当時放送されていた『日本沈没-希望のひと-』はその一つでした。私は、描写(特に音声)が精神状態に影響してしまうので、2話目からは消音にし、字幕だけで見ました。字幕だけを見ていても、同作は楽しむことができました。

     教養卒論も順調に執筆できました。しかし、テーマがテーマであるだけに、時折鮮明な恐怖を思い出してパニック発作になりました。子ども時代を思い出して、その反動でパニックになることもありました。

    子どもの頃は、楽しかった。しかし、今はつまらない。やはりこれも俺が凡人だからか?天才だったら、西友の駐車場でムシキングを楽しんだように、数学、物理を楽しめるのに。今の俺は、試験勉強に追われている。

    成長すると、現実的な強さを得る代わりに、蝶が舞うような優雅さを失う。なぜだ。だったら、そんなものいらねえから、一生「優雅」でいたい。

     

    パニックになった時のノートの引用


     それでも、連日のパニック発作の合間を縫って試験勉強と教養卒論の執筆を進めていました。しかしその矢先、11月16日のことでした。


     この日は、昼下がりに奇妙な想起が起こります。それは2016年6月(高校2年時)に伯母が見ていた、とある殺人ドラマの一節で、このようなやり取りがありました:


    冤罪で捕まった人A:「なあ、俺を逮捕して尋問までして、謝ってくれないか?」

    刑事役の人B:「もういちど、刑務所に入るか?」


     5年前に一度見たこの場面が、何度も頭をよぎりました。原因は今でも分かりませんが、当時、このシーンを想起した時に、「大人になると、間違ったことをされても謝ってもくれなくなる。大人は汚い。」という感情をセットで想起しました。恐らく、子ども至上主義の教養卒論の執筆で、子どもと大人について思考しているうちに、この描写がトラウマのように思い出されたのでしょう。なお、このドラマのタイトルは見ていなかったので覚えていません。このドラマではその後、年配の男性が犯人だったことだけは覚えています。


    追記(2026年3月21日):このドラマは、『コールドケース ~真実の扉~』(シーズン1)の第3話「冤罪」だったように思います。恐らく、「年配の男性が犯人」というのは記憶違いなのかもしれません(AIにこの描写を入力して教えてもらいました)。2016年という日時とも整合します。



     このワンシーンが想起されてつかの間、今度は2020年5月に、弟にしてしまったひどいことを想起しました。それによって、次第に過呼吸になっていきました。その時電磁気学の授業をオンラインで受けていましたが、途中から内容が頭に入ってこなくなりました。


     「大人を汚いと思いつつ、なんだかんだ言って、自分も『汚い大人』に加担している一因ではないか」。この思考が、この時にパニック発作を起こしていた犯人でした。すると想起は中学時代にまで及び始め、私はオンラインで受けていた席を立って暴れ始めました。


    何とか授業に食いついて書き進めていたペンが止まる。そして、自分もこれまで社会の前でしっかりしないといけないようにされてしまった人間としては例外ではないこと(「本人」と言われる機会が多くなったことや、自分も事務手続きをしなければならないこと、及び先生に「死にたい」と言うと後に「ご迷惑をお掛けしました」などと謝罪しなければいけないことなど)、そして、こんな授業すらも理解できない程度の頭しか持っていないこと、その意味では(中学時の先生)の言うとおりであること、そうしたことが頭の中で煮えくり返り、もう凡人の大人としてしか生きてはいけないと思ったため、いよいよ堪忍袋の緒が切れ、その上今週は難解な「量子力学入門(演習)」の期末試験が控えていることを思い出し、すべて重く感じ、死のうと思って包丁を持とうとした。

    この時に書いたメモ帳の記述・一部個人情報は改変 


     偶然居合わせた伯母に止められましたが、この時過呼吸になり、包丁を握ろうとしていたのを覚えています。そして、数時間後、母が仕事から帰宅しましたが、母は伯母に「仕事をやめなさい!息子と仕事、どっちが大事なの!」と怒鳴られていました。この時、私は堰を切ったように2度目のパニックを起こし、伯母を投げ飛ばしてしまいました。


     結局この惨事の後、母は数時間泣き、私は事態を全く知らない父にこっぴどく叱られました。これは、今思えば明らかに精神の限界が到来していたサインでしたが、そのサインを前に、もうなすすべがありませんでした。幸いにも、翌日は主治医のいる日なので、朝一で上京して診察を受ける希望を抱きました。


     しかし翌日、「11時半までに来なければ診られない」と診察をあっさり断られ、私は3度目のパニックを起こしました。この時、周囲の人(母、父)に危害が及びそうになったので、母が救急車を呼び、私は近くの総合病院に運ばれました。しかしそこでも、診るものはなにもないという理由で帰されてしまいました。


     病院で待っていた数時間で、少し落ち着いたため、帰りは母と2人で総合病院から歩いて帰宅しました。その時、母と今の現状について少し話すことができ、新しい打開策を考案してやや落ち着きました。翌日、オンラインでの量子力学の試験があり、私はそれを無事にパスできました。


     教養卒論も同時期に終了し、提出を終えた私はやや安堵しました。そして、この時再び休学することを決めました。


    2度目の休学

     2度目の休学期間中、教養卒論の担当の先生から嬉しい知らせをいただきました。私の教養卒論が、優秀作に選ばれたとのことでした。魂を捧げて書いた「渾身の一作」なだけに、当時とても嬉しかったのを覚えています。また、そこで担当の先生と相談し、来年度(2022年度)行われる発表会に出ることも決めました。当時、教養科目の授業を通して多くの人と出会えた喜びがあったので、その発表会に出ることで、より多くの人と繋がれる、という希望を抱きました。


     2度目の休学期間中はビートボックスに熱中しました。「Kスネア」と言う技の習得には苦戦しましたが、その後、練習を重ねてできるようになりました。この後も、リップベースやトランペット、フィルターなどを習得しましたが、未だにインワードリップベースやバベリロールなどはできません(2022年に発症した空えずき発作「ヒステリー球」も相まって、その後ビートボックスは負担になってしまいました。後述)。


     また、この期間は今まで書き溜めた精神解析のアイデアを熟考することにも充て、それにも熱中しました。そして、将来機会があれば書籍化したい内容も深めることができ、有意義に過ごすことができました。


     地元で、飛んで来るテントウムシを見たり、巨大な四つ葉のクローバーを見つけたりしながら、過ごしていました。



    この時見つけた四つ葉のクローバーです。


     その後、授業の続きであるドイツ語の授業を受けるために第2Qから復学し、新しい2年次を歩み始めました。


    2022年度 〜静かな崩壊〜


    祖父の死と巨大なフラッシュバック

     こうして始まった2022年度は、順調にスタートしました。7月、待ちに待った教養卒論の発表会に出ました。登壇して発表することができ、終盤の意見交換会で、多くの先生方と話ができました。この時、立志プロジェクトにて「チコちゃん」の言葉を言った先生から、謝罪の一言もいただくこともできました。

     また、この時期にnoteというSNSを始めました。今は「Nekotchi」という名前で活動していますが、当時は「ねこっち」という名前で活動を始めました。noteでは、顔を知らない多くの人と出会うことができ、楽しさも感じていますが、後述する変化と危機感によって、今はnoteを更新停止しようと思っています。その旨も、やがてnoteに書こうと思います。


     物事が順調に進んでいるように見えた、6月下旬のことでした。祖父が入院しました。

     当時、祖父は黄疸を発症し、同時にγ-GTPの値が1000を超える状態になりました。そして後日、祖父は進行したすい臓がんと診断され、余命2か月と告げられました。

     しばらく入院していた祖父でしたが、その時に死期が近いことを悟り、自宅である祖母の家に帰ってきました。看護師や祖母、伯母の反対を押し切って、祖父は帰宅しました。

     7月下旬から8月中旬まで、祖父は祖母の家で過ごしました。祖父はたくましい人で、亡くなるその瞬間まで「全てを分かっていて黙っていた」人でした。実は、私が浪人の頃~大学2年次(この頃)、祖父は祖母と伯母から虐待を受けていました。祖母の家に泊まっていた私には、「女は怖いで、気をつけろよ!」とよく言っていました。祖母の家は農家ですが、農業のほとんどを祖父が担っていました。その祖父は、しばしば祖母から「ガスライティング」を受けており、伯母もそれに加担していました。浪人時から、その光景を前にして私はどうしようもできずにいました。祖父が祖母の家で静養中のこの時も、「枕を取ってくりょ(くれ)」と頼んだ祖父に、祖母が枕を投げてよこしたこともありました。

     祖父は、8月14日に息を引き取りました。その前日にはミニトマトを食べ、亡くなる当日は、ファーマーズマーケットの帽子をかぶっていました。祖父は最期まで、農業人でした。

     私はこの当日もパニック発作を起こしており、祖父の最期を見届けられませんでした。実は、祖父の急変を受けて直前に母と祖母の家に駆けつけていましたが、私が車内でパニックになったので、母もしばらく車内にいました。その時、私は激昂してノートパソコンで自分の頭を5回殴り、1台目のノートパソコンは大破しました。そのノートパソコンは、今でも電源はつきますが、ファンの音が大きくなったため、使っていません。

     この出来事を皮切りに、パニック発作は数が増えました。9月、セカンドオピニオンを求めて受診した病院で人格否定を受けました。この時も、執拗なメタ認知から逃れられず、私は医師の話を終始黙って聞いていました。そして、同じ月に一群の巨大なフラッシュバックを経験しました。大学1年時の悪夢が鮮明によみがえったその体験は、新幹線に乗っていた私に幻覚を見せ、駅に着いた私は意識を失いました。気づいた時は、私はアパートのベッドにいました。この時、意識が遠のくその瞬間まで、母の「どういうつもりがあるの!」と言う怒鳴り声が聞こえていました(無論、つもりなんてものはありません)。


    沈黙の秋

     この年の秋は、不気味なほど静かでした。それはまるで、この次に訪れる悲劇と、持病の悪化を暗示していたような。

     私は、第4Qから始まる実験の授業に備えて、「物理実験学」と言う授業を受講していました。この授業とドイツ語の授業、および英語の授業以外の単位は前年度に習得していたので、負担は前年度ほどではありませんでした。静かに、淡々と不気味な秋を過ごしていました。


    魔の冬・絶たれた出版の夢とヒステリー球の勃発

     迎えた2022年の冬は、想像を絶する難易度の実験の授業で幕開けしました。実験は一回一回がとても重く、さらにレポートも膨大な量であり、私は1度目の種目で絶望しました。そして、この頃自費出版を進めていたあるテーマについて、幻冬舎の方と面談することになりました(12月14日)。

     この原稿は、すべてに絶望して自殺未遂をしてしまった12月11日の夜、車でアパートに向かう車中で完成させました。それを翌日、幻冬舎にメールで送りました。その原稿は、教養卒論以上に魂を込めたものでした。

     しかし、12月14日の面談で、幻冬舎の方から受けたのは説教でした。

    「君はまだ、社会を知らない。」
    「これから、いろいろ分かっていくと思う。」

    そのような話を延々とされました。途中から、再びメタ認知が発動し、私は不気味なほど冷静になってしまいました。その効果もあり、16日ごろまでは落ち着いていましたが、17日ごろから異変が・・・。

     突然、強烈な吐き気に襲われました。そして、「オエッ!」という空えずきを連発。幸い、吐くことはありませんでしたが、あまりにも苦しかったので地団駄を踏んでのたうち回りました。

     このような現象はその翌日から1時間に数回というペースで増え、以後、これが止まらなくなりました(今もそうです)。この奇妙な症状は、医師から「咽頭異常感症(ヒステリー球)」と言われました。この症状は、もしご存知の方がいらっしゃれば、東海オンエアの「ゆめまる」と言う方の「嗚咽」と表現すれば分かるでしょうか(「嗚咽」とは本来、泣くことを意味しますが、語感が似ているためそう呼ばれるようです。学生支援の先生も、同じ「嗚咽」と表現されていました。以後、呼称は「ヒステリー球」で統一します)。

     ヒステリー球の悪化によって、ビートボックスをできなくなりました。Kスネアの、息が当たる感覚でさえも、引き金になってしまうためです。今はヒステリー球の対処法を考えたため、多少はできるようになりましたが、それでも当時のように思いっ切りやることはなくなりました。また、ヒステリー球によって2種目目以降の実験の授業を断念しました。「量子力学II」と言う科目、および「ドイツ語」のみに焦点を絞り、履修を続けました。

     この日から、パニックとヒステリー球が同時に起こるようになりました。医師の言う通り恐らく心因性ですが、まだはっきりとした原因は分かっていません(この辺りは、医師も取り合ってくれないので、現在も自分で様々な角度から考察しています)。

     この時、身体症状として2度目の限界が到来しました。

     このまま、この年は冬休みに入りました。唯一、負担が和らいだ大晦日は、ヒステリー球が一度も起こりませんでした。


    一度落ち着いた嵐・春休み

     この嵐が一旦落ち着いたのは、春休みでした。春休み、量子力学の期末試験を終えた瞬間に、重圧から解放されたような感覚を覚えました。この時、同時に「試験が終わって解放されるなど、凡俗な学生のようで嫌だ」と思いましたが、それ以上に解放感が大きかったです。そして、そのまま春休みに入り、一度落ち着きました。

     春休みは、それまでやっていなかったことに挑戦しました。大学は東京にあるものの、それまでの生活があまりにも慌ただしかったため、私は東京の有名な土地に一度も行けていませんでした。そこで、この年の春休みに、初めて秋葉原に行くことに挑戦し、それを達成できました。電子部品を大量に手に入れ、「昇圧チョッパ回路」や「寝返り検出装置」などの作品作りを行いました。なお、寝返り検出装置は私の発案した装置で、当時(~今)悪夢に悩まされていたため、夜中にどの程度寝返りを打つのか把握しようと思い、作りました。

     この時に買った「抵抗器」などの一部の部品は、今でも大切に使っています。

     春休みは、終始落ち着いて過ごせました。東京で初めて、楽しいと思えた時を過ごせました。2023年3月、実に大学入学して4年がたってから、私は「大学生デビュー」を果たせたような実感を得ました。

     しかし、大学入学後続く乱高下する状態は、すぐに終わったわけではありませんでした。

    2023年度 ~激動の末の、心の平穏~

     2023年度は、更なる激動を経験することになりました。そして、この年は10月ごろ、万物が調和したような不思議な精神状態になり(一瞥体験と言うようです)、奇跡的な心の平穏を自覚しました。この節では、それについて詳述します。

    再び嵐の中へ

     4月、授業開始によって「統計力学」と言う科目が始まり、演習のクラスが新しいものになりました。演習のクラスは2クラスありましたが、私は過年度生であるため、演習のクラスは好きな方を選べるとのことでした。そこで「Aクラス」を初回に受講しましたが、Aクラスの先生がとても癖の強い先生で、大柄で声も大きいその先生の授業は言葉も辛辣で、聞くに堪えませんでした。

     授業中も軽いパニックになり、手に汗をベッチョリとかき、呼吸が浅くなりました。板書で発表した学生に対して、「なんだその字は!『物理は爆発だ!』と言わんばかりの字だな。もっときれいに書きたまえ!」とその先生が怒鳴っていました。今まで、物理学系には論理的に指導する先生はいても怒鳴る先生はいなかったので、私はこの時、中学時代も思い出して恐怖のど真ん中にいました。

     授業後、アパートに帰るとすぐに暴れてしまい、椅子を蹴り、お気に入りのマスクの箱を八つ裂きにしてしまいました。そして、このままではいけない、と思ったので、もう一つの演習クラスである「Bクラス」のほうを受講することを考え、それを検討しました。

     Bクラスは2回目の演習の授業があった金曜日に行われていました。そこでは、比較的穏やかな先生が授業を行っていたので、すんなりと内容に入っていけました。そのクラスは毎回課題が出るクラスで、なおかつ対面が原則でしたが、私は先の怖い先生のクラスのことを思えばそれは何でもないと思ったので、Bクラスを受講するように履修登録しました。

     Aクラスでの一件が心をかき乱したため、その後、再びパニックが連続するようになりました。秋葉原まで行けたのが嘘のように体力が無くなってしまい、4月中旬に母と母の友達と行った高級蕎麦屋では、そばを食べることができませんでした。そして、Bクラスの課題は難しいものも多く、私は再び物理相談室を利用して課題を解くようになりました。しかし、この時は物理相談室が対面オンリーに変わっていたので、対面で受講していました。

     そのような中、4月24日に再び激動の一件が発生します。

     この日は、どうしても分からない演習の課題があり、物理相談室を利用するために早めに上京しました。いつもは(一人でアパートに泊まれないため)母と上京しますが、この日は1泊だけ一人でするしかなかったので、キャリーケースを片手に一人で上京しました。

     物理相談室では、基礎理論系の論理的な学生が担当してくれました。その人は、学年こそ1つ上でしたが、年齢は下でした(私は過年度生なのでした)。しかし、その人の横柄な態度と言ったら、私を何も知らないように扱い、先述の幻冬舎の方を彷彿とさせるような物言いで説教を始めました。私は、この時も暴れてはいけない自分を抑え込むメタ認知が発動したので、ずっと「はい、はい。」と聞いていました。

     結局問題は解けず、アパートに帰りました。その時、異変が発生します。

     アパートで一人の私は、突然、幻覚を見始めました。その幻覚の最中、ちょうどキース・ヘリング氏の『イコンズ』を彷彿とさせる3つ目の怪物が見えました。それがアパートの一室を暴れまわっています。私は、それに向かって「誰だテメエ!」と怒鳴りました。そして、記憶はここで消えています。

     気づいたのは翌日で、なぜかアパートに母がいました。パニックの時、どうやら私は母にLINEを送っていたようで、それを見てただことではないと感じた母が上京を早めてくれたとのことでした。LINEには、見たことのない文章が書いてありました。

     この時も、母に「どういうつもりなの?」と問い詰められましたが、答えられませんでした。また、主治医に相談することは叶わなかったので学校医の先生に相談したところ、「前向性健忘」という症状名を紹介していただきました。

     秋葉原に行けたつかの間の安定は、再び嵐の中に消えました。


    母の手術と3度目の限界

     実は、母は2022年の冬(あの激動の時代)に「GIST」という希少がんのような腫瘍が胃に見つかり、2023年の5月に入院することになっていました。希少がんともなれば、最悪命を落とすことも考えられていました。当時、私は母に「あんたは散々おかしくなった。これでお別れで、ちょうどいいかもね!」と言われたのを覚えています(とても傷つきました)。幸い、母の腫瘍は悪性ではなく、5月の手術で速やかに摘出できました。

     母が入院中、私はとても気分がさえわたりました。今でこそ、母が実は過干渉の気質があり、それがパニックの主要な原因をなしていたことは分かっているのですが、2023年5月当時は「母に非がある」と思うことは居場所を失うことを意味していたので、それを疑うことができませんでした。母と距離を置くと、途端に元気になることを、当時は不思議に思っていました。

     その後、6月に母が退院しました。私もこの時、期末試験が終わり、A4用紙両面100ページに及ぶ漫画を10日で書き上げた直後だったので、すこぶる元気でした。私は久々に草取りを手伝い、母と楽しく過ごしました。

     しかし、6月13日、大学のカウンセラーの先生とオンラインで面談している時に、ある一件が起こりました。カウンセラーの先生に「大学1年時のつらさ」を訊かれたのですが、それに対して先述の「親御さんと離れていきましょうね」と言った学生支援の先生や、「理系のことばかりやってる奴はチコちゃんに叱られるぞ!」と言った先生の話を紹介した時、それを盗み聞きしていた母が「人のせいにして、ひどい!」と言ったのを聞いてしまいました。私はこの言葉で、主に次の2点でショックを受けました:

    (1)母が本質的に、私のつらさを分かっていなかったこと。
    (2)私のつらさを「人のせい」という(何なら自分が加害者の)問題にすり替えられたこと。

     これを聞いて私はパニックになり、反射的にリスペリドン錠を5錠服用してしまいました。この時、実は弟のアパートにいたのですが、帰れなくなり、近くのビジネスホテルに母と泊まりました。母は泣いていました。

     夜、私は強く絶望しました。母にも、分かってもらっていなかったのか、と。しかし、ここで再びメタ認知が暴走し始めます。メタ認知が、「じゃあ、自分も母のことを分かるのか?」と問うてきました。その答えはNOでした。すると、「人のことも分からないのに、母に分かってもらおうなんて傲慢だ」という考えを、メタ認知が提示しました。私は、まだどこかで胸の苦しさを感じつつも、「そうだ、確かに」と思ってしまい、母に対する怒りを封印させてしまい、「申し訳なかった」とさえ思ってしまいました。

     今でこそ、これはガスライティング被害者の思考の例だということが分かるのですが、当時はそのようなことは知らず、完全に自分が悪いと思っていたものです。

     その後、ホテルから授業に向かいました。授業は頭がガンガンして内容が入ってきませんでしたが、最後まで受けられました。こうして、2Qがスタートしました。

     2Qの授業を一巡したころのことでした。

     6月22日のことでした。この日はアパートにいました。内容は覚えていませんが、この日、普段よりも深刻な「悪い思考」に襲われていました。思考はぬぐおうとしてもぬぐえず、どんどん悪化していきました。

     私が勉強机でうなだれていると、母が「ちょっといい?」と声をかけました。「今、何をしてるの。」「何を悩んでいるの。」

     私は答えられず、さらに黙っていました。しかし、母はさらに執拗に訊いてくるので、パニックになってしまいました。

     近くにあったハサミを母に投げつけました。当たることはありませんでしたが、母はたちまち発狂。その声でスイッチが入った私は、ベランダの窓を開け、物干しざおに足をかけて外に飛び降りようとしました。その時、物干しざおが折れてそれは未遂に終わりました。

     私は発狂しながら母と取っ組み合いになりました。途中、胃の手術をした母の腹部に肘が何度も当たってしまいました。

     しばらく暴れたのち、母が救急車を呼び、私は主治医の病院に運ばれました。保護室という鉄格子の部屋に運ばれた私は、そこでしばらくクールダウンしていました。しかし、そこに看護師が入ってきて、看護師は何を思ったのか、私に説教を始めました。

    「キミの要望に応えることは、病院としてもできないんだ、うん。」
    「ここにはルールがある。入院するんだったら、それに従わなくちゃいけないんだ、うん。」

    私は、「うん、うん。」というそのうるさい看護師の話を最初は黙って聞いていましたが、途中でキレてしまいました。

    「ここにいる奴らは、そんな威圧的な喋り方しかできんのか!!」

    そう言いながら、保護室の壁に頭を打ちつけました。すぐさま異変を感じた看護師が5人ほど集まってきました。その時も、メタ認知はどこか冷静で、「5人だ、5ってドイツ語でfünfって言うんだね~!」と喋っていました。そして、入院がストレスになると判断され、私は母と帰ることになりました。夜9時過ぎの、ガラガラの電車に乗って、アパートに着いたのは夜中でした。

     翌23日、私はベッドから起き上がれず。母も気が動転し、私の寝姿を伯母にLINEで送りつけて助けを求めていました。この日は、その後何とか地元に戻りました。


     地元に着いてから、2度目の事件が起きます。

     まず、自宅に着いた時は部屋がきれいでした。母が一言、

    「ここはきれいでいいね。あの日はアパートの部屋が散らかってて恥ずかしかった。」

    私がパニックになって家具がめちゃくちゃになったのを、そういったのでした。私は、たいへん悔しくなりました。

     その後、私はしばらく椅子でうなだれていました。すると夕方、辺り一面がピンク色に染まる夕焼けが出現。母と父が、外に見に行きました。

     私が相変わらずうなだれていると、母がそこに来てこう言いました:

    「私は夕焼けを見て『はぁ~、きれいだ!』といえる生活は、すごい豊かだと思うけどね!あなたは夕焼けを見るっていう、なんかこういう豊かさってのは分からないんだね!経済だけが豊かさだけじゃなんだけどね!」

    主に3つの点で、この言葉に強烈な怒りを覚えました:

    (1)夕焼けがきれいだという感性は、パニックの中でもずっと大事にしてきた。それを、今こうだからと言って「もっていない」と決め付けられるのは、本当に遺憾である。
    (2)2019年、汚い大人になることを拒んだように、私は大人の表面的な豊かさはずっと避けてきた。特に、現代が「夜の光」を得て満天の星を見られなくなった豊かさの矛盾などは、嫌というほど考えてきた。それを知らないように扱われるのは、悔しい。
    (3)あと、経済が豊かさなんて、私は一言も言っていない。今月の給料ばかり心配して、お金お金というのは、むしろお母さんのほうではないか。

    これらが言語化できなかった私は、怒り心頭に発し、家の玄関を飛び出て、2kmばかり離れた祖母の家に向かいました。母との関係が、この夕焼けの一件で決裂したこの時が、間違いなく3度目の限界でした。

     夜、祖母の家に着いた私を、祖母と伯母が幸いなことに歓迎してくれました。伯母に話を聞いてもらうと、伯母は頷いてくれたうえで、

    お母さんは、シンパシー(共感)ではなく言葉で理解しようとしているから、いつも理由を求めてしまうのでは?

    とコメントしてくれました。私は、客観的な人がいることに嬉しくなり、母の前ではあれだけ言えなかった「ありがとう」を自然に言えたのでした。


    母と離れて過ごした1か月

     その後、1か月ほど母と離れ、祖母の家で過ごしました。祖母の家に来ると、不思議なほど頭が冴えました。この時は、とある方のブログを読んで息抜きしながら、自身の精神的問題を次々と言語化していきました。この間、主治医の受診を受けましたが、主治医は症状を黙認しました。


      この頃、大学でTOEICを受けなければいけなかったので、私はそれに向けて勉強していました。まだ英語が堪能ではなかった(今もそうです)ので、勉強は苦戦しました。また、この辺りの日は、祖母の家がペンキを塗る工事をしていて、塗装業者の方が頻繁に出入りしていました。


     そのようなある日のこと。突然、祖母が豹変しました。それまで歓迎してくれていたのが、「居候だ!」と私を責めたて、私は追い出されました。「いい年した若者が居候している」と言った祖母。あとで訊けば、この時は毎日出入りしている塗装業者の方に気を遣い、そう言ってしまったとのこと。私は大変ショックを受け、家に戻りました。


    TOEICの合格と北海道旅行

     家では、奇跡的に母と衝突することなく過ごせました。授業は、週に1回だけ上京して対面を受け、後の授業は特別にオンラインで受けさせていただきました。 

     その後、夏休みにTOEICを受けました。特に対策していったPart2(リスニング)は、すべて聞くことができました(後日、Part2が満点だったことが判明)。そして、9月には伯母と北海道旅行に行くこともできました。この頃、TOEICの結果が、大学の定める合格最低点を超えていたことが分かり、それもプラスに働きました。

     北海道は、富良野、札幌、小樽などの地を回りました。2日目、『北の国から』のロケ地にて、障害者割引があるか尋ねたところ、受付の人に「精神は障害とちゃう!」という差別のような言葉を受けました。この時はそれでも取り乱すことはなかったです。

     そして、夏休み最後は「バーサライタ」という空中に文字を書く電子工作の作品を作りました。赤外線センサーで白黒パターンをスキャンし、そのパターンを空中に描き出す作品を設計して作り、成功しました。猫の顔のイラストや、弟の大学のサッカー部を応援する文言などを空中に描きました。

     夏休み最終盤は、自宅にいました。ある日、本棚の奥深くにしまわれていた『ロボット・カミィ』という絵本を読みました。それを読み、何かが自分の中で整理されました。そしてこの頃から、物事を俯瞰して見られるようになっていきました。


    秋と心の平穏

     10月から授業がスタートしました。量子力学IIIという授業で学んだ「散乱理論」という理論が、2023年時点で6年間考えていた自作の数学問題(『変身鏡問題』といいます。機会があれば紹介します)を解くうえでヒントになると直感し、とても楽しかったです。10月上旬は、パニックもほとんどなく淡々と過ぎていきました。

     10月11日のことでした。いつものように精神解析をしていると、突然次の発想が起こりました:

    「自分自身の不安定を作っているのは、過去や不安定に対するこだわりではないか。」

    どういうことかというと、想起やパニックは、「自分のことを分かってもらえない」とか「自分は中高時代、大学時代にひどい経験をした」というような自分に対する執着心が起こしているのではないか、といういうことに気づいたのです。また、その執着は理由があって起こったもので、それを捨てるのではなく自然に手放すことが大事だ、という考えにも至りました。私は仏教のことはあまりよく知りませんでしたが、それは奇しくも仏教における「放下著」という思想と同じものでした。私は、パニックだらけの苦心の末、知らぬまま仏教的境地に達していたのです。

     この発想を得た時、自分が目の前の景色と一体になったような体験をしました。それは、生きていてよい、という安心を超えた、さらに安らかなものでした。そしてこの日から、私は「執着を手放す」練習をしていきました。

     まず、「マイナスのこだわり一覧」と題して、これまで悩んできたこだわりを全て可視化しました。こうすることで、自分が何に悩んでいたのか、相対化できました。その上で、なるべく「今・ここ」に意識が向かうように、散歩を趣味にしました。散歩では時に10kmほど離れたところにも出かけ、その間、私は様々な虫や草木を観察して意識を今に集中しました。また、『ロボット・カミィ』が(何らかの意味で)転機になったように、童話を読むようにしました。童話には、大人のグロテスクさや「人の振り見て我が振り直せ」を押し付ける教訓じみた話は少なく、自然なものの味方を優しく促してくれる力があります。それに浸ることで、意識を「今・ここ」に向ける作業(今でいう「マインドフルネス」)を独力で開発し、それに勤しんでいました。

     すると、精神状態は嘘のように落ち着き、パニックはついに0回になりました。また、母にも「あんた、変わったねぇ!」と言われ、母とも話ができるようになりました。この頃は、日々の驚きも言葉にせずにはいられなかったので、短歌を趣味にしました。祖母の考えた俳句に下の句をつけたり、自作の短歌を詠んだりして楽しみました:

    (祖母)夕焼けに 山並みつづき 明日も晴れ
    (ねこっち)たそがれ時は 風も涼しや

    夏野菜 深まる秋を 生き抜きて たくましかりき 今日は豊作

    こうしたことをしていたある日、宗教勧誘に遭いました。勧誘の人が「人生の目的は何だと思いますか?」と言ってきて、驚きましたが、私はすぐに次のように答えました:

    「野を飛ぶチョウには、子孫繁栄と言う共通した目的がありますが、チョウたち各々は、ただこの世に生を受け、その生を全うして死んでいきます。人間もまたそうした動物の一部であるとすれば、一義的な目的などないように思います」

    また、その男が「あなたも幸せになりたいでしょう?いいんですか?今から私たちについて来ずに帰ったら、あなたは不慮の事故で死ぬかもしれませんよ。明日大地震が来るかもしれませんよ。ロシアが攻めてくるかもしれませんよ。」と言い、横にいた大柄な男が続けて「そして地獄に落ちて、大きな苦しみを味わいますよ。」と言ってきました。私は、あわや勧誘の集団に連れ去られるところでした。しかし、そこでも私は

    「それでもいいです。自分の幸せに全力で生きていれば、どんな事故や地震があってもいいんです。起きぬ未来をあれこれと悩んで今の時間を大事にしないほうが、よほど不幸せではないでしょうか。」

    と言って反論しました。ついに言い返す言葉もなくなった向こうは、「あんた犯罪者になるぞ」と脅したので、「それはあなた方が負けを認めたと捉えてよろしいですか。」と訊き返し、その場を後にしました。途中、追ってきたので警察に通報し、事なきを得ました。

     この宗教勧誘の一件を受けて1度だけパニックになりましたが、それも速やかに回復しました。私は、本当の意味で「心の平穏」を手にしたのでした。この時、悪夢も数がかなり減りました。

     第3Qは好成績で終わりました。この時、1年時のGPAの記録を塗り替える成績を修められました。

     続く第4Qでは、昨年度絶望した実験の授業が待っています。しかし、既に心の平穏でフルパワーを得ていた私は、実験の授業及びレポートを軽々とこなし、1週間に30ページ弱の量のレポートを毎週書いていました。そして、年明けの授業も楽しんで行うことができ、先生とのディスカッションも楽しんで、4Qは足早に過ぎていきました。

     この時受けた「物理学実験A」はその後、92点だったことが分かりました。


    大人の定義の変化

     この平穏の時に気づいた、最大の気づきが一つあります。それは、「大人になること」の肯定です。

     それまで、大人になると汚くなってしまう、という考えに支配されていました。子ども至上主義も、そこから出てきた考えでした。しかし、この時気付いたのは、「大人だからこそ、純粋に生きることも自分で選べる」という逆転の発想でした。

     今まで、「大人なのだから自分で判断しなさい」というようなことを、学生支援の先生にも主治医にも言われてきました。当時は「大人という理由で人を頼る権利を剥奪されている」と嘆いていましたが、この時、それらの言葉が統合されていきました。「大人なのだから、自分の人生も自分で考えて良いのだ」という風にして。

     いわば、「いい年して、みっともない」と言われた時に「はい、すみません」というのは子どものすることだ、という発想に至ったのです。大人ならば、無視することも、「みっともないでしょう?でも、そんな理由で楽しまなくてどうするんですか。」と反論することも、できるのです。自分で責任(その後のこと)をとれるのならば、どのように生きてもいいのです。

     こうして、私の意識はさらに鮮明になっていきました。大人になることの再定義を、果たせたのです。子ども至上主義は、この頃、静かに薄らいでいったのでした。


    平穏の終了

     しかし、この平穏は終わってしまうことになります。それは2024年3月10日、次の思考の末に物語作りを始めてしまったからでした:

    「今の自分は、優れた境地にいるが、創造性がない。これではいけない。」

    この日から物語作りに没頭しました。物語を作成中、ヒステリー球が連発しました。これは、物語作りによって自律神経が興奮したからだと思います。「オエッ!」「オエッ!」と言いながら紙に漫画を描いていた私は、変な人だったかもしれません。

     そして3月23日、物語が完成しました。しかし、あろうことか私はそれを母に見せてしまいました。母は物語を読むなり痛烈に批判し、「これは駄作だ」と結論づけました。


     この一件で、母と3時間言い争いになりました。そして、この日を境に再びパニックが起こるようになり、6か月続いた平穏が終わってしまいました。

     3月25日、予約外で主治医のもとに行きました。主治医は変わり果てた私に驚きつつも、「お母様はそうおっしゃいましたけど、物語は成功したんじゃないですか?」と言いました。私は、うなずきつつもどこかで「それは違う」と思っていました。

     3月下旬にかけて、パニックが悪化。1階のリビングに布団を敷いて、そこでうなされるようになりました。この時、「創造性なんか求めて物語を書いた自分が馬鹿だった」と何度も悔やみました。

     いわゆる「悟りの境地」を一瞬垣間見て、そこから戻ってしまうことを「一瞥体験」と言います。この時の心の平穏は、一瞥体験の一種だったといえるでしょう。


    2024年度 ~安定と不安定~

     2024年度に入りました。前年度の3月最下旬に、私はとあるnoteのユーザーと対面で出会いました。その人は哲学に造詣があり、かつ英語も堪能な人でした。年齢は私と近かったです。しかし、親近感は湧かず、むしろ私がパニックだらけで何もできなかった若者時代を有意義に使えていることに嫉妬してしまいました。

    うつ病と診断されるまで

     4月3日、幻覚を伴ったパニックが発生。幻覚では、巨大なコイが頭上を泳ぐさまを見ました。

     その後、noteにいくつか記事を投稿しました。『久々の不調。』やら『極限の考え』と言った、不調の内容を投稿しました。そして、この時も悪い思考は止まらず、毎日思考促迫に襲われて気が気ではありませんでした。

    何を見ても悪い事しか浮かんでこず、自分はやれていない、雑魚だ、クズだ、凡人だ、最悪だと責めまくっていました。
    『極限の考え』より引用

    上旬から「物理数学III」と「物理学実験B」の授業が始まりましたが、初回の物理数学IIIの授業の前、再びパニックになりました。全身脱力感で歩けない私を、母が泣きながら肩を担いで教室まで行ったことを覚えています(この時も、メタ認知は冷静でした)。

     その後、物理数学IIIの授業は履修を取り消しました。

     実験は、初回はパニック発作を起こして欠席しました。2回目に補講をやり、レポートは間に合いました。レポートを書いている時、書きたい内容が浮かんでこない違和感を覚えました。「心の平穏」の頃には確かにあった、大胆に筆を進める感覚が、思い出せなくなっていたのです。

     その後、5月まで頑張りました。しかし、5月中旬、先のnoteのユーザーから、『ねこっちさんへ』と題した特別記事が送られてきました。そこには、

    ・安定と不安定を繰り返すのは、根底がなっていないからだ
    ・自分は、有象無象にはストレスを感じない
    ・過去のことを気にするのは、改めるべき

    と書かれていました。私は、自分がこれらを分かっていつつも何もできなかった今までを、誰も分かってくれておらず、さらにこうした「指導」まで受けてしまうことをたいへん悔しく思いました。私は、静かに崩壊していきました。唯一、「俺はねこっちさんのことを、仲間だと思っています」と書いてくれたことは嬉しいと感じたので、その旨と2、3の感想を(ほとんどメタ認知がこしらえた嘘ですが)返信で伝えました。その後、爆発を起こし、父の所有する七輪の容器を蹴って割ってしまったのは、その数日後のことでした。

     恐らく、noteの本人が読めば私のことなどもう信頼しないでしょう。しかし、こうして犠牲者が増えていくのもまた、私のパニックの症状なのです。

     5月22日、予約してあった通院に行き、「うつ病」と診断されました。そこで「トリンテリックス」という薬を処方されました。トリンテリックスには、副作用に吐き気、嘔吐、下痢などがあります。この時、メタ認知が「エビカニクス」の替え歌を作ってよこしました:

    「トリンテリックスでトリンテリックスでトリンテリックスでゲロっちゃおう!」

     私は、「ゲロってしまう」のが怖いため、トリンテリックスを飲みませんでした。


    少しずつの回復

     うつ病と診断されてようやく、母が私を「自由意思」ではなく「病人」として見てくれるようになりました。それによって、少しずつ家で心を開けるようになり、回復していきます(トリンテリックスを飲まなくても母の心遣い一つで回復できたのは、この不調の本質が母との軋轢にあったことを示唆しています)。

     6月9日には、弟のサッカーの試合の応援に、三鷹まで行くことができました。そこで弟やその彼女とも学問や趣味の話をしました。また、実験は最後までやることができ、83点という結果が返ってきました。さらに、第2Qの初めはセスジスズメ、フクラスズメ、マダラバッタなどの様々な虫を飼育し、それを楽しみました。虫の観察記録をつけている時が、一番休まりました。

     第2Qは毎週2回上京していたため、新幹線の移動費がばかになりませんでした。しかしそれでも、地元で過ごす時間はメタ認知がとれる貴重な時間なので、お金には代えられません。この頃、『うちゅう人 田中太郎』というギャグマンガにもはまっていました。こうしたギャグマンガが、心に刺激を与えないで見られる娯楽の最大限でした。

     平日はレポートを書き、休日は田中太郎を見て虫を飼う。そうした日々を送っていました。


    元気爆発

     7月に入ると、授業も楽しくなってきました。特に「統計力学II」という授業は内容にのめり込むことができ、授業で学んだ数理モデルの別解を考えるなど、充実した時間でした。

     そのうちに精神状態は完全に回復し、心の平穏の頃のように清々しくなりました(それでも、心の平穏の頃にはあった大胆さは思い出せませんでしたが。)。近くの公園を探検し、授業で学んだ『イジング模型』の厳密解を考え、夏の暑さを自身のいい意味での揺らぎに変えて楽しんでいました。この頃の感覚は、『元気爆発ガンバルガー』の「元気爆発」という語感が最もしっくりきます。

     8月に入ると、田中太郎や登場するキャラクターである「メチャワル星人」の絵を大量に描いて遊びました。地元の夏祭りにも参加し、走り回って元気爆発している子どもたちを見てさらにエネルギーを蓄えました。大人になることの再定義もできた今、私は大人として、誇り高く存在している、そうも思えました。

     夏休み、日向灘で大きな地震がありました。近いうちに、南海トラフ巨大地震が起こるかもしれないと、世間では騒がれていました。しかし、私は「地震が来ても、今を生きていれば大丈夫だ」と思いながら、毎日を淡々と過ごしていました。


    古畑任三郎の力でやり切った最後の実験

     ある日、母がTikTokで面白そうな動画を見ていました。それは『古畑任三郎』のとある回の話でした。私は、古畑任三郎を見て直観的に「『IQ246』の法門寺沙羅駆だ」と思いました(実際は、法門寺沙羅駆が古畑任三郎のパクリらしいですが。)。

     その後、私は古畑任三郎の描写が気に入り、何度も見ました。見ているうちに、私の中に古畑任三郎氏が入ってしまい、「あの~、すみませぇん」というようなセリフが日常会話でも出てしまったことがありました。

     そのような中、大学で最後の実験科目「研究プロジェクト」がありました。この授業は、物理学実験A/Bとは比較にならない難易度の実験を3つ受け、それについてレポートを提出し、最後にプレゼンをするもので、私は緊張していました。しかし、やってみれば何のことはない、簡単な授業でした。

     途中、実験をしながら、「これは古畑任三郎の推理と同じだ」ということに気づきました。そこで、以後実験を推理のように行い、レポートは毎回考察を充実させて40ページ近く書きました。3つ目の種目でプレゼンをやる時は、何度も質問をして積極的に議論しました。また、この実験期間中に、物理学における主要な定義値である「真空中の光速」「プランク定数」「アボガドロ定数」「電気素量」「ボルツマン定数」をすべて暗記してしまいました。

     実験では、2種目目にちょうどこの定数を用いる計算課題があり、すべて覚えていた私は爆速でその課題を終わらせ、全問正解という「無双」をしました。

     第3Qは、楽しいまま終わりました。


    低位と高位の概念

     この時発見した一大概念に、「低位と高位の概念」というものがあります。それは簡単に述べると次のようなことです:「低位」とは、物事の基本的な階層であり、「高位」はそこから派生した複雑なこと。例えば、「脱いだ服はたたむ」という低位の事象を子どもは教わるが、ゲームをやりたいという高位の欲求によって、服をたたまなくなるという変化(低位の矛盾)が生じる。成長とともに、物事は自然に高位になる。

     この概念を考え、私は「高位の矛盾を解消しようとすると低位で矛盾する現象」を解明しようと考えました。それはたとえば、ドラマでよくある例としては「お前の秘密をばらすぞ!」と言われて殺人をしてしまう、というようなものです。秘密ができた過程は「高位」であり、複雑な物事が絡んでいます。それが「ばらされる」という矛盾に突き当たった時、その人を殺めてしまうという「最も低位の矛盾」を犯してしまう、という構造です。

     これを用いて、私は人生の苦しみは「高位になっていくことだ」と定式化し、低位のまま生きる方法などを様々に考えました。その一つ、「ジョージの原理」という発想は、『おさるのジョージ』に由来し、「世界を、凡人よりも下から見上げて生きる」という内容です。ジョージが好奇心旺盛に生きるように、人生を生きることを目標にしました。

     そして、子ども至上主義の考えもこの低位と高位の概念で説明しました。子ども至上主義は、「大人になるだけで高位になってしまう人生の要素が存在すること」によって引き起こされると説明し、それといかに折り合いをつけるかによって子ども至上主義は解消できる、と考えました。「大人になることの再定義」は、その一例だったわけです。さらに、「大人になると経済や良心が敵になる」という2019年度に感じた違和感は、「経済や良心が『低位』だからだ」という形で説明がつきました。高位を扱いつつも、低位を大切にしたい、と何度も思ったものです。

    4Q・再びパニックに

     12月上旬から4Qが始まりました。ちょうどこの時、家の電話回線のことで連日ソフトバンクに行っていたので、事務的なことで忙しい毎日でした。

     そして、そのさなか、父が異常行動を起こしたため、それを受けて精神が不安定になりました。この不安定は、その後4Q中続くことになります。

     12月中旬、ソフトバンクの一件がようやく終わりました。しかし、私は連日の事務作業で疲弊しており、さらにショップの店員から冷たくあしらわれたこともあったので、混乱していました。中旬は、頭が冴えたり落ち込んだりを繰り返していました。


     事件は下旬に起こりました。12月21日、祖母の家にいた時のことです。祖母の家の猫・ミーが私のほうを見ました。すると、母がミーのつもりで「あ、あそこに人がいたニャ」と言いました。ミーはしばらく私を見ていましたが、その後、目を逸らして歩き始めました。

     すると母がそれを「通訳」し、「あ、あの男はダメニャ。」と言いました。この時、私はこの言葉によって「猫の無邪気な振る舞い」から子ども至上主義をフラッシュバックし、一気に身体中にその感覚がよみがえりました。まるで、苦労だらけの大人を、子どもが無邪気に「あの人、何で下向いてるのー?」というような時の胸糞悪さを、強烈に身体が再現し始めました。

     私は激昂して、ストーブに祖母のスマホを投げつけました。スマホはストーブの上の鍋に命中し、湯が吹きこぼれ、火が立ちました。それを見た母、祖母、伯母が大声を出しました。それでスイッチが入った私は、固まったまま動かなくなりました。

     この日はその後、ミーをかわいがった祖母を怒鳴ったり、母にパンチしたりして暴れてしまいました。私は、やむなく帰宅しました。

     翌22日、母にこっぴどく叱られました。私がうなだれて寝ようとした時に、母がベッド迄ついてきました。そして、何を思ったのか、横になった私を抱きしめました。母のぬくもりを感じた私は涙。小一時間泣きじゃくりました。

     しかし、泣くことが大嫌いな私は、今度はその泣き声でスイッチが入ってしまいました。この日、午後に上京する予定だったのですが、着いた駅で暴れてしまいました。駅員の人と母に止められましたが、母はその時泣いていました。

     この日から精神状態は劇的に悪くなり、学校でも発作を起こして倒れました。


     そのまま、暗い年明けを迎えました。いつもは新年の抱負を考える初詣で、何も考えられず、苦し紛れにこんな短歌を詠みました:

    初詣 誓い抱負も なにもなし そこにあるのは 澄んだ山際


     1月に入っても、アパートの階段で倒れ込んだまま1時間動けなかったりすることもあり、ボロボロになっていました。それでも何とか授業を終え、4Qをやり切りました。

     途中、3Qの成績が公開されました。研究プロジェクトで、97点という好成績を修められたことが、何よりの励みになりました。


    研究室所属

     当初、2025年度は休学する予定でした。しかし、母に「今これだけやれているのに、休学はもったいない」と言われ、私はそのまま研究室配属を希望することにしました。

     私は、同級生に比べて5科目ほど(計10単位以上)科目をとっておらず、専門科目の得点に開きがあることが予想されていたので、研究室所属は自信がなかったです。実は、もし希望の研究室に配属できなければ、「先輩から過去問をもらい、せかせかと学んできた奴らの希望が通り、本質を見ようとしていた人間が退けられるとは何事だ」という遺書を書いて自決するつもりでした。

     そうして命がけで迎えた研究室所属は、第二希望に配属されることとなりました。第一希望と第二希望は、どちらを第一希望にするか悩むほど憧れていたので、研究室所属は成功でした。

     3月、新たな研究室を夢見て、自学自習が充実しました。この時にTOEICをもう一度受け、自己ベストを更新しました。また、第4Qの成績が出て、一番苦労した数値計算の科目が満点でした。GPAは、3.73と出ました。

     母によく言われるのが、「あなたは本当はやれているのに、その勝手な悪い思い込みだけが悪いんだ。」という言葉です。確かに、結果だけ見ればそれは言えるでしょうが、それは間違っています。私は、苦心の末にこの結果を何とか出しているのであり、決して「やれている」のではありません。


    2025年度 ~大学生活の真相~

     2025年度は、研究室所属に始まった年でした。研究活動は大変でしたがやりがいもありました。そして、大学生活の最後の最後に、ようやくこの7年間に起きていたことの真相を、把握することになります。パニック発作と苦しみの「正体」が、今、明かされます。

    研究活動が始まる

     研究活動は3月下旬から始まりました。いよいよ本物の研究ができると思いつつも、内心は複雑でした。

     というのも、私はこれまで物理学を通して自分のアイデンティティを模索する中で、「自分は誰かに引き上げてもらわなければ何もできない人なのか?」という疑念が払えずにいたからです。研究活動で英語の論文が読めることや先端研究に触れることに喜びを感じつつも、4年次という学年を待たなければそうしたことができない自分の無力さに腹が立っていたのも事実です。今まで50以上の自作の数学問題を考え、これだけ思考をしてきたのに、自分は成果になることはついに何もできなかった、と悔しかったです。

     アイデンティティが静かに破砕されたような感覚を覚えました。

     そのため、最初のころはテキストの内容が形式的にしか頭に入ってこず、内容理解に苦戦しました。この頃読んだ内容を真に理解できたのは、その8か月後のことでした。

     研究室で出会う仲間とも、なかなか親しくなれず。心の開き方が分からないという技術的な課題もありましたが、実に4年(3年+浪人1年)も年下の彼らが「同級生」という事実に参っていました。

     研究活動は、単調に過ぎていきました。それでも、パニック発作は続いており、5月17日には自殺未遂を伴った大きなものを経験しました。なお、この日は母が友達と夕食を食べる予定の日で、私のパニックによって夕食会が台無しになった母にはその後泣かれました。

     7月、前期の研究発表会を終え、蓋を開けてみればその科目も満点での合格でした。その時も母に「やれているのにもったない」と言われましたが、私は嫌な気分がしました。

    秋・静かな不安定

     大学院入試は8月19日にありました。前日、アパートで一人でいる時に、中学時代の鮮明なフラッシュバックが発生し、幻覚を見てのたうち回りました。それでも試験は突破でき、私は大学院入学をできることになりました。この時も、「大学院に入らなければ創造的なことが何一つできない自分」に腹を立てていましたが、いつか消えてくれるだろうと思って相手にしませんでした。

     秋、指導教員の先生とあるトラブルがあり、一時期パニックが増えました。研究活動には支障が出ませんでしたが、もはや自分のパニックよりも研究活動のほうが大事になってしまたような現実に絶望していました。「自分は、こんなことのために大人になったのではない。」とも思いました。

     そのような中、研究活動は淡々と進み、冬になりました。12月、『核と殻の2体構造に見る精神不安定-繰り返す「安定と不安定」の原因は殻の脆弱性にある-』という一大文書を書き、深層心理という観点で不安定を記述することに成功しました。この時は「自己理解ができた」と思いましたが、今思えばこの文書は表面的な現象に着目した理論にすぎませんでした。


    研究発表会と惨劇

     2月12日のことでした。この日、研究活動のことで、ひょんなことから指導教員の先生に説教されました。

    「これから、大量の論文を読むことになる」
    「キミは自己完結している」
    「もっと開放的にならなければいけない」
    「研究は社会のために行うものだ」
    「研究の世界は厳しい。これは間違いない」

    この日から、頭痛を発症しました。また、パニック発作がこの日を境に慢性的になり、これを書いている今でも、パニック発作がいつ何時襲ってくるか分かりません。

     私は、幻冬舎の人、保護室の看護師、ソフトバンクショップの人、noteのユーザー、そして指導教員と、様々な人に説教されます。それは、私が何も知らないうぶな青年に見えるからでしょうか。

     本当はその逆で、私は人生、社会のことを(マイナスに)達観しています。こんな苦しい人生、こんな恐ろしい社会、こんな汚い大人、・・・。周囲の人から受ける説教は、皮肉にもそれを悪化させています。学士特定課題研究の最後の最後で受けたこの説教で私は失速し、発表会はやり通しましたが精神的にズタボロになりました。

     その後、自殺未遂を3度ほどしました。そして、悪い思考が山のように出てくるので、全てノートに書きなぐりました。この時、悪い思考は止まることを知らず、私はノートを一気に2冊使い切ってしまいました。

     しかし、この時悪い思考を一つ残らず記録したのは、非常に良かったことでした。私は、この時の思考を分析することで、ついに大学生活の真相に到ることになります。


    大学生活の真相

     まず、私は大きく誤解していました。私は、レオンハルト・オイラーやアイザック・ニュートンのような人ではなかった。

     私は俗世間と離れて物理に明け暮れることを夢見ていました。それを信じて、大学7年間を学んできました。しかし、それは違った。私は、数式を書いている時よりも空想に耽っている時のほうが楽しい。黒板の前にいる時よりも、クローバーの生えた小道を歩いている時のほうがワクワクする。私はてっきり自分を「物理人」だと思っていたので、嫌でもこの環境にしがみついていました(大学をやめると、行く場所がないというのも理由でしたが。)。

     そして、私が最も対策すべきは、物理が分からないことでも、子ども至上主義でもありませんでした。パニック発作を繰り返し、それでもなお冷静な議論や対処を求めてくるこの支援体制のほうだったのです。私は今回の経験でようやく、大学生活をメチャクチャにした真犯人がパニック発作であったと気付きました。それまでは、パニックは物理をやれていないことから来る副次的なものだと思っていました。母の言うように、「あなたはやれているのに、その思考が勿体ない」と思っていました。

     そして、母の「何のつもりがあるの?」「経済だけが豊かさじゃないんだけどね!」「その思考が勿体ない」という言葉、これは過干渉に端を発するガスライティングだったことも、ようやく理解しました。実は、母の言動もパニック発作を悪化させていた立派な原因だったというわけです。

     事態を把握してようやく、この問題は物理ではなく人だった、ということを理解しました。そういえば、ゼミでの説教の直後、訪問看護の看護師につらさを打ち明けたところ、「今はそうやって悩み考える時期だ」とそこでも説教されました。こうした支援体制それこそが、癌だったというわけです。

     そこで、私は東京および自宅の支援者から逃げ、今は祖母の家で暮らしています。ここに来ると、私が普段から言っていた「私は発達障害です。」という言葉も、その真相が分かりました。私は、自分の行動がすべて仇になってしまうこの環境(東京と自宅)では、発達障害の殻に閉じこもることでしか自分を守れなかったのです。祖母の家に来てみると、嘘のように身体と心が軽くなり、また自分のことを自然と自分でできるようになりました。祖母も伯母も、今は「あなたは自分でやれて偉いねぇ」と、肯定してくれています。このような適度な距離もまた、祖母の家での大きな特徴です。母とは距離が近すぎた。


    低位と高位の概念の真実

     祖母の家に来て、ようやく自分のメタ認知がいかに強大であったかを知りました。メタ認知は、パニック発作を起こしてもなお冷静で、私をコントロールします。このメタ認知を有効に使うこともまた、今後の課題なのかもしれません。

     そして、それについて考えていた時、2024年10月に書いた『低位と高位の概念』の真相に気づきました。それは、低位と高位の概念は私の哲学的な思考の披露ではなく、パニックになって最も低位のルールを破ってしまう苦しさを伝えたかったSOSだったのではないか、ということです。「高位の矛盾を解消しようとすると低位で矛盾する」という現象は、パニックになって物を壊したり暴れたりしてしまう自分の苦しさそのものだったというわけです。

     これに気づいた時、今の自分に必要なのはもっと祖母の家にいることだと気付きました。祖母と伯母には迷惑をかけますが、今の自分が安全にいられるのは、祖母の家にいることなのです。現に、祖母の家に来てから、パニックはその前兆を読めるようになりました。また、過呼吸や沈黙はあっても、物を壊したり暴れたりすることはなくなりました。

     『低位と高位の概念』で本当に伝えたかった真実に気づけたのは、凄まじい一歩だと思えました。


    科学信仰の崩壊

     今まで、科学は絶対だと思っていました。解明できない現象は、人間の頭が悪いだけで、天才ならば解明できるだろう、とさえ思っていました。

     しかし、今回の一連の経験で、その信仰が崩れました。科学とは、本質的に頭の中で行う営みにすぎず、科学がどうであれ、自然は自然としてそのままに存在しているのです。むしろ、何でも論理の力でねじ伏せようとする姿勢は、精神科では薬の多剤処方・多量処方を招き、問題をかえって深刻化させます。私は、自身の病気 ~パニック発作~ と向き合う中で、科学への盲目的な信仰をしていることに気づき、それを変えようと思うことができました。無論、科学によって救われる命や発展する技術があり、科学が悪とは言いません。科学を万能であるかのように見ていたその視点が不十分だった、ということです。

     形式的には、大学7年間で物理学を学んだ末に出た結論としては、非自明で興味深いものだと思いました。しかし、この大学生活で向き合ったのは、物理学というよりは自身の身体と心の問題でした。

    おわりに

    今後のこと

     今は、祖母の家での暮らしが叶っています。しかし、いつ祖母が「居候」と言い出すかは読めない状況です。そこで、今は次なる策を考えています。

    (1)週の3日を自宅で過ごし、週の4日を祖母の家で過ごす(可変)。
    (2)自宅にいる間は、ガスライティングに巻き込まれないように実地観察をする。
    (3)祖母の家では、今まで通り創造的な活動を行う。
    (4)大学の学生支援の先生、訪問看護の看護師の担当を替えてもらう。

     (4)について、実は何でも話せる学生支援の先生は、2022年3月いっぱいで退職されてしまいました。今は、医学信仰が強く、何でも論理的に説明しようとする精神科医の先生が学生支援の先生であり、うまくやれていません。

     この苦しさは、今もまだ終わったわけではありません。しかし、一旦本当の自分に気づいた以上、私にはこれを持続可能にする責任があります。

     そこで挙げたのが上の4つの案です。ここでは、(2)について補足します:

     上で述べたように、自宅でのパニック発作の主要な原因は母のガスライティングと、父の勘違いでした。これらに、これ以上巻き込まれるわけにはいきません。そこで、私はこれをユーモアに変える作戦に出ました。『ニシン・コンテスト』の実施です。

     「燻製ニシンの虚偽」という言葉をご存知でしょうか。論点をすり替える論法や話術を、このように言うらしいです(由来は省略)。私は、家にいる間は『ニシン・コンテスト』と題して母や父の言動を語録として記録し、それを「これも私が悪いの?部門」「また自由意思のせいにされた!部門」などで表彰してやろうと思いました。こうすることで、少なくとも私は当事者ではなくなります。

     母と父は、母と父なりに私を全力でサポートしてくれました。私も、そのような母と父を悪者にしたくはありません。そこで、「ニシン・コンテスト」という形で、これを客観化したいと思ったのです。

     これによって、私は自宅で生き永らえることもできそうです。


    むすびにかえて

     ここまでお読みいただいた方、ありがとうございます。2作目にして約4万文字に至るこの記事は、書くのも大変でした。と言っても、この記事を作成したのが昨日(2026年3月19日)の11:40頃で、書き終わったのが3月20日の12:00ごろなので、丸一日だけでしたが。このような過集中も、分かってはいますが付き合い方が分かりません。

     昨日、母と「なんか、最近筆が進むんだよな」という話をしました。「俺、物書きの才能があるかもしれない」と言いました。すると、母は「お金になったらいいね、それ。」と言った上で、すかさず「でも我流じゃだめだね」と言いました。この大学7年間を壊した過干渉は、まだ終わったわけではありません。

     少しずつ、自立を考えようと思いました。大学1年次は手も足も出なかった自立ですが、祖母の家にいれば、どういうわけか手が届きそうに思えます。発達障害という殻を、破れる時は近そうです。

    追記:noteの今後

     文章の途中(2022年度の部分)で、noteについて言及しましたが、まだ説明していませんでした。私は、3月いっぱいを目安に、SNSであるnoteを原則、更新停止しようと思っています。

     noteではたくさんの出会いがありました。それは紛れもない嬉しい事実です。しかし、私の体質にはnoteの「スキ」機能が合わないです。記事を投稿すると、過覚醒になってしまい、それがパニックを誘発することも多いです。また、スキがつくと気分が高揚してしまい、その影響が勉学や生活に出ます。そこで、閲覧数のみが単に表示されるこのブログに移行しようと考えています。

     また、noteでは独特の健気で前向きな雰囲気によって、無意識のうちに性格が変わってしまうこともあります。そのため、noteでは普段の自分よりも控えめな記事しか書けず、それも悩んでいました。

     noteでは、私の記事を楽しみにして下さったフォロワーの方々がいらっしゃるので、アカウントは残します。また、今は「noteの更新停止」と言いましたが、体調が良い時は(数か月に1度でもよいので)更新することもあるかもしれません。また、noteに書く前にこのブログにも記事を書き、それをnoteに記載するなどの使い方も有りかもしれません。まずはこの旨noteにも投稿し、様子を見てみようと思います。

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