なぜ「自分のことを分かってほしい」と思うのか ~承認欲求などの背後にあるもの~

目次

     はじめに

     「自分のことを分かってほしい」「自分の取扱説明書(トリセツ)」。


     このような言葉を昨今、様々な場所で耳にするようになりました。「自分はこんな人生を歩んできた」「こんな苦労をしてきた」。そのような経験や思いを他者にぶつけ、理解を得ようとしている人は多いかもしれません(私もそうでしたし、今もそうなる時があるので人のことを言えませんが)。


     では、それはなぜでしょうか。ミーイズムという言葉があります。これは「自分の興味や関心、幸福を最優先にし、社会的な事柄や他者の事情にはあまり関心を払わない自己中心主義」という意味の言葉で、一言で言えば自己中心、わがままのことです。「自分のことを分かってほしい」という思いは、しばしばこのミーイズムとして解釈されることが多いです。そして、ミーイズムはネガティブなもの(わがままなど)として解釈されることが多いです。


    私たちの心には「自分だけがよければいい」と考える利己の心と、「自分を犠牲にしても他の人を助けよう」とする利他の心があります。利己の心で判断すると、自分のことしか考えていないので、誰の協力も得られません。自分中心ですから視野も狭くなり、間違った判断をしてしまいます。

    『稲盛和夫オフィシャルサイト』より

      確かに、ミーイズムに陥っている状態では判断力、注意力も低下し、常に認知に「自分」というバイアスがかかっているので、何を考えても自分のことばかり考えてしまい、思考力も落ちてしまいます。「自分はこんなに大変だった」「自分はもっと評価されるべき存在だ」「自分は、」「自分は」・・・。


     なぜ、今の社会にはこうした「自己中心主義(ミーイズム)」のような状態が普遍的に見られるのでしょうか。これは日本だけでなく、世界中で起きているとも言われています。


    ベトナム戦争は遠い昔としても、イラク、アフガニスタン戦争、先の見えないテロとの戦い、リーマン・ショックなどの金融不況に疲弊しきった米国民は、「世界を指導する米国」よりは「自分たちの米国」を求めたのだ。「ミーイズムの世界」である。

    「米国第一主義」が生み出す世界秩序の空白|公益財団法人 日本国際フォーラム 


     そこで、「周囲のこと」よりも「自分のこと」を主張する人が多い理由を、この記事では「社会の複雑化」「安心できる居場所」という観点から考察してみます。なお、この記事は決して、「自分は、~」と考える人の敵になるものではありません。「もっと他者のことを考えよ」とか「自分中心で世界は回っているのではないのだぞ」と言うような根も葉もない根性論を語るつもりはありません(こうした根性論はかつて、私が苦しんだ考え方そのものです。自分がされて嫌なことを、他者にするつもりはありません。)。


     この論考についての一つの意見を知りたい方は、ぜひお読みいただければと思います。


    自己中心性のあれこれ

     「自分のことを分かってほしい」という考え方も、現れ方によってさまざまなものがあるようです。ここでは、それをまとめてみます。

    承認欲求

     最も現代社会で耳にする自己中心性の一つは「承認欲求」ではないでしょうか。これを読んで下さっている方の中には、この言葉に傷つき、承認欲求と聞くと自己否定を受けているように思う方もいらっしゃるかもしれません。実は私もそうです。この言葉は、私も嫌いであり、私は普段使わないように心がけています(承認欲求の強さにその人の癖を求めても、そこに解はない)。ここでは、この言葉の意味を再確認し、現代社会で用いらている「承認欲求」との差異を説明します。

     承認欲求という言葉自体は、客観的な立場から定義されたものです。その歴史はアブラハム・マズロー(1908~1970)の自己実現理論に始まります。

     心理学者であるマズローは、『自己実現理論』において次の考え方を提唱しました:「一口に欲求と言ってもそれはら分類できる」。こうして分類されたのが、「マズローの欲求段階説」として知られる次の欲求群です:生理的欲求、安全欲求、所属と愛の欲求、承認欲求、自己実現欲求。このうち、承認欲求は下から4番目にある欲求になります。

     マズローはこれを「人間の基本的欲求」と定義しました。つまり、誰もが抱く自然な欲求であるというわけです。そう考えると、承認欲求は基本的欲求の一つなので、それを抱くこと自体は何の不思議でもないと考えられます。つまり本来は、承認欲求は生きている限り、普遍的にあるものなのです。

     しかし、現代社会における「承認欲求」という言葉は、やや異質な意味を帯びています。「承認欲求モンスター」という言葉に代表されるように、この承認欲求が強すぎるといわれているのです。よく目にする例では、SNSにおける「いいね」の数に執着することや、忙しさのアピール、および自分のことばかり話して人の言うことを聞かないことなどがあるでしょう。

     実は承認欲求には、2種類あります。一つは「自己承認」、自分で自分を認められることです。もう一つは「他者承認」、他者の言葉や行動で自分を認めることです。現代の強すぎる承認欲求は、基本的には他者承認です。自己承認が適切に行えることは「自己肯定感」としても知られ、これが強いことは問題ないのですが、他者承認は他者を巻き込む(他者に依存する)のでよくない、ということです。現代社会で言われる「承認欲求」は、ほとんどの場合、他者承認を指しています。承認欲求モンスターとは、正確に言えば「他者承認モンスター」というわけです。

     すると承認欲求の問題の本質は、他者からの承認を必要とする人が多いこと、と言えそうです。「自分で自分を承認できず、他者の言葉や行動で初めて、自分を承認できるという人」が多いことが問題と言われているのです。

    ミーイズム

     自分で自分を肯定できず、他者にその肯定を依存している結果、起こってくる現象の一つが「ミーイズム」という状態です。

     冒頭でも述べたように、ミーイズムとは「自分のことばかり考えて相手のことを考えないこと」を指します。自分自身が常に「他者承認」を求めていれば、他者に自分をアピールしてしまうので、行動は必然的にミーイズムになっていきます。

     一方、1970年代のアメリカにおいては、「ベトナム戦争」や「ウォーターゲート事件」などによって社会への不信感が募り、自分(個人)が主役になった経緯があります。そのため、全てのミーイズムが他者承認由来によるものとは考え難いでしょう。


    自分さえよければいい

     他者のことを考えないのは、そもそも「自分さえよければいい」と思っているためであることもあります。例えば、電車や新幹線で空いている座席に荷物を置き、足を広げてくつろいだり、部下の成果をまるで自分の手柄のように報告する上司であったり、あるいは映画などで見られる例では、所属していた組織の機密情報を盗んで悪用したり売りつけたりし、自分だけ巨万の富を得たりするようなものが該当します。

     中には、何の理由もなく「自分さえよければいい」と考える人もいます。そのような人は、人を利用したり蹴落としたりするのに何の抵抗も持っていない場合が多いです(サイコパスとして知られる人格に近いでしょう)。本記事では、そうした人のことは扱いません。一方、何か理由があって「自分さえよければいい」という状態に見かけ上なっていた場合は、その人にはその状態から脱する努力とサポートが必要です。人は追い詰められると、「自分さえよければいい」に多かれ少なかれ、なってしまうものですからね。


    なぜ「自分」なのか

     ここまで、自己中心性のパターンを見てきました。ここからは、「自分のことを分かってほしい」という考えがなぜ起こるのかについて、分析してみます。この考察でポイントになるのは、「人生/社会の複雑化」と「安心できる居場所」という着眼点です。

    心の発達

     今でこそ経済活動や利害関係の把握などができている私たちであっても、最初からそうではなかったはずです。幼い頃は、店の中で「これ買って~!」と叫んだり、クリスマスや誕生日に欲しいものを得ることができたり、おもちゃ店同士の競合など知る由もなく好きなおもちゃに夢中になったりしていました。経済活動や利害、他者の都合などのようなことは、人生の後になってからわかることです。

     つまり、私たちには「無条件の愛と肯定」「夢中になること」という事柄のほうが、「他者の視点に立つこと」や「事情の把握・考慮」よりも心の深いところにあるのです。これは以前、核と殻という観点で心の構造を描写し、考察した内容です。


    複雑さ

     そうすると、人を年輪に喩えると、その中心付近には純粋な世界が広がっており、外側に行くにつれて複雑になっていくことが分かります。そして、その人の基本的な欲求や心の基礎(土台)は、その年輪の中心付近にあります。すなわち、人は大人になるにつれて複雑になっていきますが、その奥底には純粋さがあるということです。映画の感動するシーンで泣けるのは、その純粋さを奥底にもっているからなのでしょう。

     もし「純粋さ」が心の故郷なのであれば、人はそこに一番居心地の良さを感じるはずです。すなわちそこが、大切な居場所なのです。自然界の動物も、危険を感じると巣穴にもぐることがあります。これと同じように、人も現実社会の複雑さに参ってしまうと、自身の居場所に戻る心の働きが生じると考えられます。木の年輪の中心に位置する「故郷」なので、そこが最も心安らぐところであり、また幼い頃の経験から、身体もそこの安らぎを肌で記憶していることでしょう。

     子どもの頃は、この居場所に戻って来ることは比較的容易なものです。周りの複雑さは親や周りの大人が処理してくれるので、その「巣穴」に戻って安らぐことはほぼ自分の意思で叶います。私も、幼い頃はそうでした。マリオのフィギュアをもってお出かけに行き、それがあればいつでも自分の世界に帰ってこられました。また、私の場合、幼い頃に聞いた曲を聴くと安らぎが「フラッシュバック」するのですが、それはその曲を通して、身体が覚えている安心や楽しさが再生されるからなのでしょう。

     言い換えれば、人は純粋なその世界に現実世界でも身を置ける時、もっとも安らぎ、そして身体の働きもよくなると考えられます。当然、脳も身体ですから、脳の働きも良くなり、思考力や判断力も高まります。逆に、現実世界でそこに身を置けない状態が続くと、思考力や判断力が下がってしまうというわけです。

    「分かってほしい」の正体

     この記事の主題は、「自分のことを分かってほしい」と人が願うのはなぜか、ということでした。では、分かってほしいとはどういう状態でしょうか。

     これは紛れもなく、「人が自分のことを分からない時」に生じるものです。自分のことを誤解されたり、難しい人だと思われたり、配慮のないことをされたりする時に起こりやすい思考です。

     ここで先ほどの複雑さの話を思い出して下さい。自分のことを分からないというのは、「自分=複雑」と思われている時のことだといえます。そして、複雑さというのは「年輪の外側」つまり人生の後になって生じたことです。一方、本人としての自分は、幼い頃から自分を生きてきたわけなので、複雑になるまえの「純粋な自分」をよく知っています。

     すると、この状況では自分は他者に「自分という木の年輪の中心付近」を無視されていることになります。これは最も自分が心地よいと感じる居場所だったので、これは「他者に自分の居場所を無視されている」と考えても同じです。だから反射的に、「自分の居場所を無視しないで」と考えてしまい、それが「自分のことを分かってほしい」という言葉として出てくるのです。自分の純粋さのことを自分が(肌感で)一番よく分かっているので、それが脅威に置かれた時に、反射的に自分を守ってしまうのです。

     同じように、「自分のトリセツ」という言葉も解釈できます。これは自分の扱い方を他者に知ってもらうことで、自分の居場所を社会の中に確保することを目的としているのでしょう。この「トリセツ」を守ってもらえば、自分はやれる人です、という言葉には、この「トリセツ」を守ってもらえば、自分は安心できる居場所を確保できるので、自分はやれる人です、という論拠が抜けていたのです。

    複雑さが後押しする「承認欲求=居場所欲求」

     もし自分の安心できる居場所に身を置ければ、多くの人が見違えるほどにパフォーマンスを出し、また実生活も楽しくなるでしょう。これだけ承認欲求の問題が叫ばれているのは、言い換えれば自分の居場所を多くの人が失っているということです。

     その背後に、社会の複雑化があるように思えます。絆よりも数値でつながるようなSNSであったり、自分を押し殺してやっと達成できるレベルのタスクであったり、複雑化する国際情勢であったり、物理的にも狭い居場所であったり、今の社会には、もはや「安心できる居場所」のことを言っていられないほどの情報の過多や価値の分断が蔓延しているように思います。

     また、スマホを開けば有名人の活躍が目に入ります。彼らは、好きな事と得意なことが一致した稀有な人々であり、かつ得意なことの才能が並大抵ではない人たちです。彼らは野球や将棋などの天才であり、そうした彼らにとって、それ自体が彼らの「安心できる居場所」になるでしょう。つまり、彼らは「『安心できる居場所』にいることが社会に認められ、さらに応援される人たち」なのです。失われた「安心できる居場所」を探して彷徨う一般人と、身体や心の状態が大きく違うのは火を見るよりも明らかです。こうした「安心できる居場所」にいられるかどうかという格差もまた、社会の複雑さを大きくし、それが安心できる居場所をさらに遠いものにしてしまう、という悪循環もありそうです。

     社会の複雑さに対する心理的リアクタンス(白を打てば黒を打ちたくなる心理)によって、自分の純粋さのことを最もよく分かっている「自分」の中に閉じこもってしまう、こうした流れが加速しているのでしょう。自分の純粋さが息をできるような、安心できる居場所を確かに取り戻すこと、それが今の社会を生きるには必要だと考えます。

    さらなる悪循環

     最初、何らかのきっかけで安心できる居場所から追い出されてしまうと、他者承認欲求は自然と強くなります。すると、他者に自分を認めてもらう行動が頻発するようになり、それがさらに他者との距離を遠くします。風当たりも冷たくなり、追い詰められてしまいます。

     するとさらに、それによって安心できる居場所での執着がより一層強まります。それが他者承認欲求の行動を強くし、それで受けたバッシングがさらに安心できる居場所への執着を強める・・・。こうして、承認欲求にどんどん引きずり込まれる悪循環が発生します。承認欲求の問題が現代で深刻化しているのは、承認の数値化や共同体の流動化によって、安心できる居場所が現代に少ないことの裏返しではないかと、私は思います。

    承認欲求を計器に転換する

     もしこれを読んで下さっているあなたが「承認欲求モンスターから脱したい」と切に願っている方ならば、今述べたことは一つ大きな武器になりそうです。それは、「承認欲求モンスター」の感性を利用(ハイジャック)するという視点です。

     承認欲求モンスターであると感じる人にとっては、今述べたように、「自分の純粋さが息をできるような居場所を作ること」がこの問題の解決になります。ここで提案するのは、今自分がどの程度その問題を解決できたのか、という目安(メーター)です。そのメーターとは、その他者承認の行動に陥る頻度そのものです。

     もし「安心できる居場所」にあなたが居られていれば、もはや他者承認は必要ではありません。この時、SNSで「いいね」を過剰に求めたり、他者に評価されなければいけないと追い詰められたりすることはなくなるでしょう。逆に、安心できる居場所にいられないと、そうした行動は自然に強まっていきます。このことは、その行動を「今、自分が安心できる居場所にいられているのか?」という度合いとして測る目盛として使えるということです。

     具体的には、他者承認を求める行動が強い時は、「今、自分は安心できる居場所にいられていない」と考え、逆に他者に承認を求めないで平気な時は「今、自分は安心できる居場所にいられている」という風に測ります。こうすることで、他者承認を求めてしまうことを、自分がダメだと考えるのではなく、「安心できる居場所」を自分に与えられていないのだな、というサインとして客観化できます。その上で、「では、安心できる居場所は何だろう?」と、余裕がある時に考えてみます。


    分かってもらわなくても安心できる・自己承認

     安心できる居場所を大人になってから見つけ直すには、どうすればよいでしょうか。この方法は十人十色だと思いますが、いくつか考えられることを検討してみましょう。

    方法1:理由のない肯定

     一つ目は理由のない自己肯定です。「自分はここにいるだけで素晴らしい」「今日も生きられているから幸せだ」と思うことで、生きている自分をありのままに肯定するのです。

     どんな自分であっても肯定できるので、強力な方法になります。しかし理由がないので、「これではだめだ」という理由を見つけてしまった時にリバウンドしやすい、というデメリットがあります。例えば、「天才でなければ価値がない」と思っていた私は2023年秋にそれを克服しましたが、それ以前(2022年夏まで)は自分の肯定にしばしば「生きているだけで素晴らしい」という言葉を用いていました。しかし、天才でなければいけない理由(凡人は社会に殺される、など)を再確認するたびにそれは無効になってしまうので、私の精神状態はジェットコースターのように波がありました。

    方法2:再定義

     これは解釈をし直す、という意味です。私の場合、「天才でなければ価値がない」という思考はこれで克服しました。私の場合、大人になると安心できる居場所を奪われしまう、という恐怖から、それをされない知能の極致として天才を渇望していました。しかし、「大人になることは、安心できる居場所にいることを自分で選べることである」という大人の再定義が2023年秋に完了し、それによって天才であることは不要になりました。これは一度解釈が成功すればその結果は続くので強力ですが、その解釈に至る経験を積む必要があるので難しい方法でもあります。

    方法3:人生の積極的な選択

     自分の安心できる居場所が分かれば、それを自ら進んで選択するというのはもっとも強力な手法の一つです。多くの人は、大学を卒業するから就職する、という受動的な選択をしています。しかし、就職することに居場所がなければ、それ以外の道もあるのです。私は、大学院に進み、かつ休学して今は人生の選択肢を日々リスト化しています。長らく私は物理が好きだったので、自分を「物理で生きていく人」だと思っていましたが、今は物理が好きではあっても得意ではなかった(苦痛になることの方が多かった)ことに気づいたので、文系に転じること(いわゆる文転)や居住地の変更(もっと自然豊かなところに拠点を置く、など)も含めて様々な道を検討しています。今は、安心できる居場所がどこなのか、現在進行形で検討しているところです。

    方法4:母なる自然に抱かれる

     これは今の私の目標でもありますが、母なる自然に抱かれる生活を送ることは強力な自己承認になります。自然は、無条件に存在を受容してくれます。

    自然は、いつでも僕たちを優しく包んでくれます。

    …自然は、僕がすごく怒っている時は、僕の心を落ちつかせてくれるし、僕が嬉しい時には僕と一緒に笑ってくれます。

     

    『自閉症の僕が跳びはねる理由―会話のできない中学生がつづる内なる心 』東田直樹、p115。 

     休学中、クローバーの群生する散歩路を歩き、川のせせらぎを聞いたのは、そこではどのような私も受容されるからです。すれ違う鳥には、私を評価しようという心はありません。生えている草も、私を煙たがることはありません。すべてがありのままに生きている世界は、幼い頃、母に抱かれた時のような温もりを思い出させます。

    春の野原は、特に生命の活気で満ち溢れています。写真は2024年に撮影したタンポポです。



     何をしても適応できない、苦しい、もう他者承認がなければ生活できない、という場合は、まず自然の中に身を置くことから始めてみても良いと思います。

    どうして、現代社会に住んでいると、あれほどまでに、自己中心的になって、自己が肥大化してしまうのでしょう? どうして、承認欲求が高まって、「わたしを見て!」「わたしのことを知って!」と叫び続けてしまうのでしょう?

    (中略)

    ただ一つ言えるのは、森の長老のような大樹から見下ろされていると、そんなことはどうだってよくなるほど、ちっぽけな悩みにすぎなかった、ということだけです。


    2020年11月の道北暮らし自然観察日記|Yukiのスケッチブック 


    自己承認のその先に

     こうした「自己承認」が成功すると、(私を含め)人はやっと他者を認めてあげることができるようになります。今は他者を認めたり進んで社会貢献したりしている人も、それは自己承認の基礎ができているからそれができるのでしょう。彼らには、安心できる居場所があるのです。子ども版の「安心できる居場所」を吟味、検討し、大人版の「安心できる居場所」を確保することが、まずは、大人としての人生を送るうえでのスタートになるでしょう(私の場合、そのための時間がこの休学期間である1年間という位置づけです)。

     自己承認とは、その意味では安心できる居場所の確立という風に解釈できます。

     ちょうど私において「天才」という概念が不要になったように、自己承認ができると、それまでマストだと思っていたものが不必要になることもあります。この時、本当の意味でその人は成長したのではないでしょうか。成長とは、一歩ずつ自己承認を確立して自分をさらに進化させていくプロセスのことを言うのでしょう。私が成長という言葉を長らく嫌っていたのは、社会に適応するという意味でそれを使っていたからに他なりません。社会への適応というだけでは、安心できる居場所の確立はできず、自己承認どころか他者承認を渇望する「承認欲求モンスター」になってしまう可能性のほうが高いからです。成長した(=社会に適応した)のに他者承認をより必要とするようになったのでは、むしろ成長は悪だと考えてしまうのが自然になってしまいます。

     自己承認ができれば、人は満たされるので、その人の本性が顔を出します。その本性は、他者に貢献したり、楽しいことに没頭したり、お金を寄付したり、天才的な才能を発揮したりするかもしれません。そうした人が増えれば、この社会はもっと豊かになっていくでしょう。ちょうどマズローの5段階欲求仮説の最上位に「自己実現」があるように、承認欲求をクリアできた人は自己実現に向かうのです。逆に、もし自己承認が満たされても「自分のことを分かってほしい」と主張する人がいれば、その人こそ本当の「承認欲求モンスター」です。

     最後に、現代人が発展途上国の暮らしに憧れることがあるのはなぜか、ということを考えてみます。私たちはスマホも使えるし電気や水道にも困らないのに、なぜ発展途上国の暮らしやそこで生きる人々のほうが幸せだと思ってしまうのか?それは、彼らが物質的豊かさよりも居場所の豊かさをもっているように見えるからでしょう。

     現代社会は、便利になった反面、「モノ」が多すぎます。それは実際の物質や製品であったり、何でもかんでも数値化されることであったりします。一方、発展途上国にはそうしたものがありません。そこで、モノでのつながりよりも絆や大自然とのふれあいのほうが、自然と強くなっていきます。発展途上国に憧れてしまうことがあるのは、人の「本当の」居場所が現代においても絆や大自然のほうにあることを示しているのではないでしょうか。ちょうど、幼い頃に木の年輪の中心としてそれらを経験するように。

     私たちには、自分のことを分かってほしいと思うよりもはるかに、それが自然と消えていくような絆や安心できる居場所が必要なのでしょう。それを知るためにも、幼い頃の自分や大自然に触れてみることが、長年の疲弊を突破する第一歩になるかもしれません。

    追記(2026年6月6日):「自分を生きる」とは何か?

    自分語りの矛盾

     自分が純粋であること(少なくとも、正当な思考を持った無害な人であること)を分かってもらうには、どうしても自分を明らかにする必要があります。自分はどのような苦労をして、どういった経緯でこの思考をするようになったのか、それが社会の通念と矛盾しないことを、筋道立てて話す必要があります。

     しかし、それは自分語りに他なりません。すなわち、自分を明らかにしようとして自分のことばかり喋ると、それは自己中心性として解釈されてしまいます。

     このことが示すのは、自分が純粋、無害であると主張するのは逆の結果を生むことがある、ということです。かえって「自分のことしか考えていない」と解釈されて不純と判定されてしまうのですね。これを「自分語りの矛盾」と呼びましょう。

    成果や名誉の中毒性

     上記の「自分語りの矛盾」が生じない場合があります。それは、自分語りをしなくても、何かが一瞬で自分を「無害な存在」と証明できる場合です。私は、その働きをするのがいわゆる「成果」や「名誉」ではないか、と思っています。

     ○○大学の名誉教授、と言えば、たとえその人が下心や裏の目的をもっていても、信頼してしまいやすいですよね。これはいわゆる「ハロー効果」というものです。つまり、特定の地位や肩書きは自分の「(ある種の)純粋さ」や「すごさ」のようなものを一瞬で証明してしまうのです。特別な自分語りが一切不要なのです。

     人が地位や名誉にこだわってしまうのは、このことを鑑みると、自分の「純粋さ」や「無害さ」、「すごさ」といったものをそれらが自動で証明してしまうからではないでしょうか。勿論、立場の存在によって動かせるお金やできることも変わるので、そうした目的も考えられます。しかし、特定の(凄いとされる)立場は自分を主張しなくても自分の無害さや凄さを示してしまう記号の働きをします。これこそが「社会的信用」の言語化ではないかと思います。簡単に言えば、社会的信用を得られるため、地位や名誉を欲してしまうということです。

    地位も名誉もいらない存在:幼い子ども

     では、この「地位や名誉の呪縛」から自由な存在はあるでしょうか。それは幼い子どもだと考えられます(虐待などで一概に言えないケースもあります。)。

     幼い子どもは、守られるべき存在とされています。まだ責任能力などもないので、それは社会の中で必然的にその立場になります。あらゆる過ちも、未来のための勉強として大目に見られることも多いです。また、子どものちょっとした行動の変化は、大人から見れば「サイン」となります。大人が異常行動をすると、「あの人はおかしい」となりますが、子どもが異常行動をすると、たいてい、そうなった理由を大人たちが慮ります。前者の場合、責任は本人にある一方、後者の場合、責任は周囲にあるためだ、とも言い換えられそうです。

     こうした環境に置かれている幼い子どもにとって、地位や名誉はどう見えるでしょうか。子どもの目線では、自分の行動のたいていのことは周りが慮ってくれるので、自分は無害だと主張する必要が最初からありません。子ども同士のコミュニティではそうはいかないかもしれませんが、大人が相手ならば、あらゆることは大目に見てもらえます。したがって、子どもには「自分は無害だ!」と主張する理由がなく、したがって地位や名誉に対しての執着はほとんどないでしょう。勿論、子ども同士では、子ども版のステータス(足の速さ、頭の良さ、かっこよさ、など)が必要になることは多いものです。しかし、大人社会において自分の無害さを証明するものは必要ではないと考えられます。

     なお、これは大人社会でも黙認されていることになります。「子どもは地域の宝」と言われるように、子どもは未来を担う大事な存在だとされます。一方、これは子どもを無条件に肯定することとも同じです。そうした「社会における子どもの立場」もまた、子どもに地位や名誉が必要ないことを後押ししています。

    純粋さの他者承認=承認欲求

     しかし、人は遅かれ早かれ、大人社会で無条件に肯定される「子ども」の立場から出ていくことになってしまいます。この過渡期が、ちょうど思春期と呼ばれる時期に到来します。本来、これは社会を担う一員としてデビューするという良い意味をもちますが、それはあらゆる責任が自分に帰されるという意味も同時にもちます。結果として、大人社会で認められることも自分の責任下での物事となるので、社会的信用を必要とするようになります。

     この時、特別な能力があって華々しく認められれば、社会的信用が得られ、子どものころと変わらない不自由さで大人になれるかもしれません。事実、そうした思考で私は天才主義を発症しました。しかし、そのような夢のような能力をもつ人は少ないものです。すると、多くの人はすぐに社会的信用を得られないことになります。その結果、自分の無害さや純粋さを「大人」という立場が追い越してしまい、なかなかそれらが周囲に伝わらないことになります。その結果起こるのが「自分のことを分かってほしい」という承認欲求でしょう。

    自分を生きるとは?

     承認欲求の問題が大きな社会問題になっていることは、それだけ「自分のことを分かってほしい」と思う度合いが増えていることを意味します。今や、SNSで顔の見えない他者ともつながれる時代で、かつては不可能だった「他者に自分を知ってもらうこと」が非常に容易になりました。私を含め、人は一度快感や楽な方法を覚えると、もう我慢することや難しい方法を忘れてしまうことがあります。時折問題になる「自己の保身」は、圧倒的な立場を得て誰からも敬われるようになった結果、謝ることや耐えることなどの感覚を忘れてしまう結果なのでしょう。現代の「個人の選択肢の増加」は、承認欲求をより強くしているように思います。

     自分が自他ともに純粋でありたい、と思うと、自分語りの矛盾や承認欲求はどうしても付きまとうでしょう。しかし、そこから自由になればどうでしょうか。

     全ての社会のルールを守っていても、汚れた人だと思われてしまうことはあります。例えば、収入が少なかったり、成果がなかったりするとそう思われる傾向があるようです。いわゆる「子ども部屋おじさん」という言葉を聞いて、良い思いをする人がいないように。しかし、それの何が悪いのでしょう。確かに、人には悪い風に認知されてしまう(子ども部屋おじさん、ニート、など)かのしれませんが、社会のルールを守っているのです。社会のルールを破らないのは「当たり前」と思う人もいるかもしれませんが、私はそう思いません。今まで一度もルールを破らないのですから、立派なことです。ましてや、今日まで生きているのですから、それはゆるぎない偉業です。

     私は、「自分に誠実であれば、人から汚れていると思われてもよい」という考え方が一番好きです。社会のルールを守っていれば、それでよいのだと思います。人生を生きられているだけでも素晴らしいのに、なぜ認めてもらう必要があるのでしょうか。何十兆個もの細胞が今日も問題なく動作したのに、これ以上何を望むでしょうか。

     私は、社会的信用に目がくらんで真理に疎くなってしまうのを最も恐れています。子どもの純粋な発見に自分を猛省するような人生など、送りたくありません。

     純粋さは自認するだけで十分だ、と思えるようになってから、私は楽になったように思います。もしどうしても純粋さの他者承認が必要になるのならば、環境を変えればいいと思います。少なくとも、自然の中を歩いていれば、他者承認は必要なくなります。個人の選択肢の増加(個人主義)や社会の複雑化は、いずれも私にとっては、自然から遠ざかることの弊害だと思います。

     自分を認めてもらうことが不要だと言っておきながら、自分を語る記事を書くのは矛盾しているようですが、このブログは私の思考の整理に使っており、私はこのブログを通して誰かに認めてもらうことを必要としていません。

     社会のルールを守ることと、社会に認めてもらうことはまったくの別問題です。自分を生きるというのは、「社会のルールを守りつつ、社会的に認めてもらうことを放棄し、自分の思う自分に、自分のみが誠実に生きること」だと思います。私は、自分を生きようとする人を応援しています。

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