「ひと」と「ヒト」のはざまで・2023年秋の小エッセイ
はじめに
この記事は、2023年秋の「心の平穏」のころに書いた文章を書き写すものになります。今の私からみても、当時のこの文章はよく書けていたと思うので、ここに書きます。そのままのコピー&ペーストであり、基本的に改変は行っていません(誤字脱字は修正しました)。
2023年秋の文章
大人の社会には、時たま「ねじ伏せる」という色があるように思います。例えば、一昔前の「頑張ったが通用するのは学生まで」と言う言葉は、労力をねぎらうことに対する欲求やねぎらうことで生じる人と人の和をねじ伏せているように感じます。こうしたどこか人工的な考えに適応できない人は、自分はまだ幼稚なのではないかと考えたり、甘えているだけなのではないかと考えたりし、自分が悪いと考えるようになってしまいます。それでも、いや自分は悪くないぞと思う人は、その原因を性格や人格に求め、仕方のないことだと思うように心をコントロールしていきます。こうして、「自分は○○障害だ」「私はHSPです」と言い、そこにアイデンティティーを求める人が出来上がるように思います。
私が思うに、悪いのは頑張ったその人ではなく、人が心をもつ「ひと」であることを無視した「頑張ったが通用するのは学生まで」というその言葉のように思います。「ひと」である以上、「頑張ったね」と言ってほしい時があるのは、当たり前のことです。そうした「ひと」の側面をねじ伏せる節が、今の社会には少なからずあるように思います。
しかし、時には「ひと」をねじ伏せなければ経済も回らず、仕事も生産性のないものになってしまうのもまた事実です。そのため私は、人はある時は「ひと」になり、またある時は「ヒト」になり、一日のうちで絶え間なく変化していくのがちょうどよいと考えています。大事なのは人が大人・子ども関わらず「ひと」でいられる時間をもち、それを大事にしていけることだと思います。ところが私から見ると、本来は「ひと」であってもよい自分をも「ヒト」に統一しようとしている人を見かけることがあります。中には、それが大人になることだと勘違いしている人もいるようです。頑張った人は、「ひと」のときに褒めてもらえばよいのであって、それなのに「自分はもう大人だから」と、褒めてほしい自分を甘えていると抑圧してしまうのは、大事な自分を傷めつけるような行為のようにも感じます。
現代のいくつかの生きづらさは、この「ひと」と「ヒト」の混同や勘違いに多いのではないかとも思います。確かに、「ヒト」として弱音を言わずに働いたり頑張ったりするときもあります。そうでなければ、何かを計画、生産、流通、消費すなわち社会を営むことが難しいからだとそれは思います。しかし、自分が「ひと」であることも忘れてはなりません。「ひと」であることを忘れると、いくつかの大事な感情が抑圧され、不満や愚痴が増え、心や体がボロボロになり、皮肉にも「ヒト」でいるべき時に「ヒト」をやれなくなってしまうことすらあるでしょう。
人はなるべく「ひと」でありたいと思うものだと私は感じます。「ひと」は心が主役の状態なので、「楽しい」「好き」という感情は「ひと」の持つ感情です。少し前に流行っていたことに「好きなことで生きていく」というものがありますが、これも元を辿れば「ひと」でありたいという人の本能によるものだと思われます。また、人は自分自身については「ひと」であることを大事にしますが、(あまり知らない)他者には「ヒト」の視線を向けることが多いように思います。人々がともに「ひと」を尊重しあえる社会こそ、目指すべき姿なのではないかと思うのですが、いかがでしょうか。