自然の感性 ~私が動植物に「ちゃん付け」する理由~
目次
はじめに
今日は、少しばかりお恥ずかしいお話になってしまうかもしれません。というのも、春になった今、様々な昆虫や草木を見ることが増え、それによってちょっとばかり「変わったこと」を、お話ししたいからです。それは、(主に)動植物に「ちゃん付け」する理由についてです。
例えば
それは例えば、目の前にナナホシテントウが飛んできた時です。早春の温かい風を受けつつ、お気に入りの散歩路(「学問の散歩路」)を歩いている時、ときどき赤い点が目の前を横切ることがあります。それは、飛んでいるナナホシテントウです。私は、そういう時にたまらず反射的に「テントウムシちゃんがいる!」と言ってしまいます。
この「ちゃん付け」には、実ははっきりした理由があるのですが、それは後々話すことにして、最近ちゃん付けをした虫や草木について、紹介します:
・テントウムシちゃん:歩道を懸命に横断していたり、風に乗って目の前を飛んで流れていったりします。
・クローバーちゃん:道端に群生しており、我こそはと言わんばかりに3つの葉を天に向かって広げています。大きなものから小さいものまで様々にあり、時折、ひっそりと4つ葉が空を向いて隠れています。
・チョウチョちゃん:主に見るのはモンシロチョウとキチョウです。散歩をしていると、白い影がちらと見えるのですが、振り向くと大概、モンシロチョウがいます。また、黄色ければ私の地域では大概がキチョウと呼ばれるチョウです。幼虫はアブラナ科の葉を食べ、春の比較的早い時期から成虫が見られます。
・ドングリちゃん:私のよく行く近所の公園では、アカガシ、マテバシイ、コナラのドングリが見られます。先日も、巨大なマテバシイの実を拾って持ち帰ったところでした(現在、自宅でケースに入れて鑑賞中です。)。ドングリも種類によっては「帽子」があることがありますね。あれには「殻斗(カクト)」という名前がついているようです。
・ルリタテハちゃん:タテハチョウ科の蝶の一種です。彼(彼女?)も、先述の公園で見ました。実は、私の地域では彼を滅多に見ないのですが、この公園では3,4匹を見かけました。恐らく、どこかで繁殖しているのでしょう。
何やら「ちゃん付け」の怪しい一覧が出来上がってしまいましたが、ご容赦いただきたい。私は、動植物を観察しているこの時間が、とても幸せなのです。
自然の感性
私は大学7年間、物理学を学んできました。そこでは量子力学、統計力学をはじめ様々な専門科目を学び、この7年間は私の志したい学問分野である「生物物理学」とも出会えた貴重な経験でした。しかし、この学びにはいつも葛藤がありました。
学問と感性
それは「私は、真に学問を理解しているだろうか?」という葛藤です。私は、真に理解したことであれば、その中で様々な自己表現ができます。例えば、ある難解な積分が0でないことを証明する独自の手法を考えたり、短歌や作曲で感じたことを表現したりするなどができます。しかし、学部で学んだことでは、まだ自己表現ができていないのが現状です。
一般に、試験をパスしたり、レポートをこなしたりする理解の仕方があります。しかし、これは創造ではなく単なる情報処理だと思っています。私は、こうした理解の仕方を好みません。確かにこの理解を通らなければ創造に至れないものですが、この「情報処理」を終着点にしたくはないのです。
ちょうど生物学者で作家のレイチェル・カーソンが著書『センス・オブ・ワンダー』でこう述べていたように:
(前略)「知る」ことは「感じる」ことの半分も重要ではないと固く信じています。
「知る」学びを終着点にしたくないのです。 私は、「感じる」ことで初めて自己表現が可能になるのです。
いわば、私は「感じること」を原動力に学びと創造を行ってきた、ということです。水が高いところから低いところに流れるように、そうした自然の力を感じ取り、それを表現するのです。そのため、幾多の天才的な先人が築き上げてきた学問を標準の4年間で理解することは私には無理で、7年間を要したということもできそうです(実際は、パニック発作の影響が大きかったです。別記事に書きました。)。
この「自然の感性」が、私の学び、創造、生活、果ては「生きる意味」なのです。
私が動植物に「ちゃん付け」する理由
常識的な感性をもってすれば、大学を卒業した人が動植物に「ちゃん付け」をしているなど、正気の沙汰ではないと感じられるでしょう。そうした意見が存在することは、理解しています。しかし、私は何も、狂った感性でこうしたことをしているのではないのです。
では逆に、「常識的な感性」でもって動植物を呼び捨てにすることを想像してみましょうか。例えば、ナナホシテントウを見かけた時に呟く声も「あ、テントウムシがいた。」という具合に。私は、この発声はとても寂しいと思います。自然への親しみと畏敬の念が欠けているからです。
虫に出会えばだれでも、「お、蚊がいた」とか「キャー、ゴキブリだー!」とか「チョウチョがいるね」ということができます。しかし、虫を呼び捨てにするのは、その虫の生きている素晴らしさと、出会えた奇跡と、そうした自然の営みに失礼だと思うのです。これが、私が動植物に「ちゃん付け」をする理由の一つです。
こう書けば、次のような反論も考えられるかもしれません:「では、『さん付け』でよいのではないか。」
それも確かに一理あります。しかし、さん付けでは「親しみ」に欠けます。一般的な会社でも、同僚にさん付けしますよね。学校でもそうです。つまり、「さん付け」には一定以上の社会的距離があります。私は、虫や草木とここまで形式ばって触れ合いたくないのです。こうして考えていくと、敬意を示しつつ親しみを込めるには、「ちゃん付け」が最もふさわしいことが分かります(無論、こうやって考えた末に「ちゃん付け」をしているのではありません。これはあくまでも説明であり、私は「自然の感性」でもってちゃん付けをしています。)。
呼び捨ても「さん付け」も、私にとっては、常識的な感性の範疇でしかないのです。
勿論、私が「ちゃん付け」をするのは、日々出会う動植物にのみです。人に対しては、一定の距離を設けて「さん付け」をして接します。私は、そうしたことはわきまえているつもりです(人に対しても、呼び捨てはしないです。その人と大切な名前に失礼です。)。
面白い事実
実は、この「ちゃん付け」をしているのは私だけではないことが分かりました。
近所の幼稚園児も同じだった
近所に、とても親しくしてくれている幼稚園児の女の子がいます。私は、よく彼女とボールを蹴ったり話をしたりしますが、彼女はとても聡明で、話しが上手です。私よりも、話し方の機転が利いていると思うほどに。
そのような彼女も、しばしば生き物に「ちゃん付け」をします。例えば、我が家の庭にいるモグラちゃんには「ホリちゃん」と名付けています。また、土の色に似た蛇ちゃんには、「ツチヘちゃん」と名付けていました(ちなみに、この「ツチヘちゃん」は私も気に入っています。)。ネーミングセンスが良いですね。
そう考えると、私のネーミングはやや直観的かもしれませんが、ここで言いたのはそうしたことではありません。私がとっていた行動が、この子と同じだったことが興味深いのです。
これは「私が幼稚園児と同じ幼い行動をとっている」ことではありません。その子と同じ行動を「幼い」と決めてかかるのは常識的な感性だし、第一、その子にも失礼です。私が言いたのは、この感性はその子をはじめ、子どもの間では普遍的なのではないか、ということに興味があるのです。
勿論、こう結論づけるには、サンプル数が少ないのは承知しています。しかし、私の幼い頃の経験や、子ども向けの絵本などではこうした傾向がやはりみられます。
※例えば、類似の絵本は「虫ちゃん 絵本」と検索すると出てきます。
これはなぜでしょうか。私なりの答えは、子どももまた「自然への敬意と親しみ」を知っているからではないか、と提示できます。
再び『センス・オブ・ワンダー』より引用します:
子どもたちの世界は、いつも生き生きとして新鮮で美しく、驚きと感激にみちあふれています。残念なことに、わたしたちの多くは大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまいます。
子どもたちの世界は、鮮やかで毎日が驚きと発見の連続です。これは私の子どもの頃の記憶と今の生活、および先述の女の子を見ていても実感できます。そのような中で、人間とは違う生き物に親しみをもつことは、必然だと思うのです。ちゃん付けは、そうした動機から出てくる自然な反応ではないでしょうか。
一方、そうした「ちゃん付け」を常識的な感性で「怪しい」とか「いい年して」とか断罪してしまうのも、同時にこの引用を読めば分かります。「大人になるまえに澄みきった洞察力や、美しいもの、畏敬すべきものへの直感力をにぶらせ、あるときはまったく失ってしまう」ことによるのでしょう。
私たちは、知らぬ間にこうした常識に迎合してしまい、宝物のような感性を鈍らせてしまっていったのです。幸い、 私はこの違和感をずっと持ち続けながら成長できたため、今でもこの感性をもっています。「ちゃん付け」するのは、私が自然界に親しみを表す意思表示なのです。決して、ふざけているわけではありません。
その子も「ちゃん付け」をして動植物に声掛けしているのを聞くたびに、私も自信がつく思いです。
