異常性癖の一考察 ~棒人間のイラストで絶頂できるのはなぜか~

目次

    はじめに

    概説

     今日はいい天気です。このように日は、近くの小路を散歩することが日課になっています。そこで、私は今歩いてきました。


     歩いている時、道の端にクローバーが群生していましたが、四つ葉らしきものが一つありました。そこで、しゃがんで確かめてみたところ、それは三つ葉が重なったものでした。四つ葉のクローバーを探していると、時折、三つ葉が重なったものを四つ葉と誤認することがありますね。


     ・・・その時でした、違和感を覚えたのは。しゃがんでクローバーを確かめるという「ほのぼのとした」光景に、妙に興奮したのです。実は、私は幼い頃から、心温まる日常のワンシーンに興奮することが多くあります。ここで興奮というのは、次のような状態のことです:気分が高揚する、爆発するようなエネルギーが湧く、顔が熱くなる、性的な快感を覚える、圧倒的な力を手に入れたような感覚になる


     いつもは、こうした興奮は日常茶飯事なので、そのまま興奮のエネルギーだけを享受して受け流しますが、今日はその引っ掛かりが長く続きました。なぜ、私は心温まるシーンに興奮するのか?


     そこで、歩きながらそれをしばらく考えました。実は、今日歩いてきた小路は歩いているとアイデアが次々と湧く不思議な小路であり、私はそこを歩くとあまりにも頭が冴えるので、その道を「学問の散歩路」と呼んでいます。学問の散歩路を歩きながら、この興奮の謎を解明してみようと思い、歩き続けました。



    私が興奮するもの

     私は、つくづく自分を「変態」だと思っています。というのも、私が性的興奮を覚えるのは、ヌード写真よりも絵本のオバケだからです。確かに、ヌード写真も多少は興奮します。しかし、それはその裸の人が「今からオバケになること」を想像するからです。それよりも、『ねないこだれだ』(せなけいこ・作)のラストシーンのような、女の子がオバケに変えられて飛んで行ってしまう様子を想像するほうが、はるかに興奮します。私の興奮は常に「(下半身)オバケ」と結びついているため、例えば「お尻丸出し」の画像よりも、腰から下が映っていないヌード画像のほうが興奮します。


     また、私が興奮するのはこうしたあからさまなものだけではありません。例えば、「いらすとや」のかわいいイラストや、顔のついた棒人間(のっぺらぼうではない)にも興奮します。そのイラストの顔が童顔、健気であるほど、強い興奮が生じます。描かれたイラストが、力の抜けた笑顔や泣き顔など(すなわち心の内なる自然に突き動かされた表情)であるほど興奮は大きくなります。


     そして、凄まじい興奮が発生するのが、日常の心温まる一瞬です。例えば、子どもが手をあげて横断歩道を渡る様子や、男女がハグする様子、猫を見て癒される人、ふいに出てしまったおならで笑ってしまう人など、挙げればきりがありません。こうしたシーンを、現実・創作の別を問わず、目の当たりにすると、上で述べたような興奮が湧きおこります。これは良い風に解釈をすると、興奮に特別な写真集やエロ画像が要らないということを示唆しますが、悪い風に解釈をすると、そうした健気な人をも興奮の対象にしてしまう点、危険人物かもしれないという風に考えられます。

     

     この興奮パターンは何も今始まったものではなく、子どもの頃、もっと言えば4歳のころからありました。当時は、大人は完璧で素晴らしいと思っていたので、大人のそうした様子には興奮せず、保育園や近所で見る同年代の子ども、および自分で描いていた漫画のキャラクターで興奮していました。当時の私の自由画帳を漁ってみると、一般的な幼稚園児の描くような絵とともに、下半身がオバケになっている子どもの絵などが出てきます。


     本稿は、この興奮癖の正体に迫るものになります。



    考察

     私が興奮するものは、まとめると「下半身オバケになった人」「かわいいイラスト」「心温まるシーン」が主になります。ほかにも、「下半身オバケ」というのは実は何でもよく、ゾンビになった人や、怪物になった人、ヘビや豚になった人などにも興奮します。総じて、「人が変身する描写」に興奮するのです。ここで重要なのは変身において、元の姿が存在することです。元の姿が可愛く健気で、前向きに生きようとしている人物であるほど、興奮は巨大化します。そう考えると、「笑う」「泣く」という様子への興奮は、多かれ少なかれこの変身に対する興奮と本質的に同じです。「笑う」「泣く」というのは、情緒の動きによって、心が「笑っている状態」「泣いている状態」に変身した結果だと解釈できるためです。

     ここでは、まずこの興奮特性の異常さを、一般論と対比させることで浮き彫りにします。


    一般論との対比

     一般的には、「心温まるシーン」は人に何をもたらすでしょうか。私はそうしたものを見るとすぐに興奮してしまうので、ここではAIと辞書を使って調べてみました。


     Geminiに訊いてみます:

    ~対話開始~

    Q. 日常 心温まる どんな感情

    A. 日常の中で「心温まる」と感じる瞬間には、トゲのない穏やかでポジティブな感情が重なり合っています。具体的には、以下のような感情の動きを指すことが多いです。

    「心温まる」ときに感じる主な感情

    感謝: 誰かのさりげない気遣いや、当たり前にある幸せに気づいたときに生まれる「ありがたい」という気持ち

    安らぎ(安堵): コーヒーを飲んだりお風呂に入ったりしたときのような、緊張が解けてホッとする感覚

    愛着・親愛: 家族やペット、気心の知れた友人と過ごす中で感じる、相手を大切に思う気持ち

    慈しみ: 小さな子供や動物、植物などの懸命な姿を見て、愛おしく守りたいと感じる優しさ

    充足感: 特別なことがなくても「これでいいんだ」と心が満たされ、穏やかな幸福感に包まれる状態 


    言い換えや類語

    これらの感情は、日常会話では以下のような言葉で表現されることもあります。 


    ほっこりする: 思わず顔がほころぶような、素朴で温かい気持ち。

    じんわりくる: 派手な感動ではないけれど、時間をかけて心の奥に染み渡るような喜び。

    心がなごむ: 尖った気持ちが丸くなり、平穏な状態に戻ること。


    最近、何か「ほっこり」したエピソードや、心が動いた瞬間はありましたか?具体的な場面があれば、より詳しくその感情を紐解くお手伝いができます。


    ~対話終了~


     すぐに分かることは、「安心感」や「慈しみ」などを伴った「ほっこりする」感情を感じるらしい、ということです。確かに、それをある程度は分かる自分もいます。


     この時の感覚は総じて、心が穏やかになるような感じでしょうか。波立つ水面の波が静かに引くイメージでしょうか。日頃の喧騒や殺伐とした一面が薄らぎ、一時的にでもゆったりとした境地に至る、そのような情緒の動きが、「心温まる」からは感じられます。


     そう考えると、私の感じ方が如何に異常かが分かります。私は、心温まるシーンで波が引くどころか、興奮という形で波が時化(しけ)てしまうのです。なんと、一般の人と真逆の反応をしていることが、この時点でわかります。


     これは非常に示唆に富んだ結果ですが、もう少し観察を続けてみます。「ほっこりする」という言葉の意味を辞書で調べてみます:


    ほっこり(-する)

    [一]

    1 いかにも暖かそうなさま。ほかほか。「ほっこりと暖かい綿入れ」「心がほっこりする話」

    2 ふくよかなさま。

    「―とした風だったけが、今ぢゃあ痩やせおとろへなんして」〈洒・婦足鬜〉

    3 つやがあって鮮やかなさま。

    「庭の紅葉さへ―とした色がないわい」〈古今集遠鏡・五〉

    [二]

    [名]ふかしたさつま芋。

    「―買うて喰うてござるも」〈滑・膝栗毛・八〉

    (引用:コトバンク)

     「心温まる」の意味を調べると「ほっこり」が出てきて、その意味を当たると「暖かそう」と出てきて循環論法みたいですが、含意するところを吟味すると、「温(暖)かい」というのはどうやら本質的です。暖かいといえば、春などが思い浮かびますが、春は(花粉症や新年度の緊張を除けば)心地よくさわやかな季節です。このような感覚が、どうやら「心温まるシーン」にはあるようです。


     ここまでは、本質の周りをクルクルと回って、犬が尻尾を追いかけるような説明になってしまいましたが、ひとつ分かることがあります。それは心温まるシーンで一般の人と私とでは真逆の反応をするということです。一般の人は、心のもっている運動量が小さくなり、ゆっくりした状態になりますが、私は逆に運動量が増し、爆発するようなエネルギーが湧くということです。この「平静-爆発」の対比構造は、どうやらこの興奮特性を解くうえで鍵となりそうです。


    自然と人工

     平静と爆発の対比構造と合わせて、興奮特性を整理する時に重要になるであろう概念があります。それは、「自然と人工」です。


     私は、人工的なもの(ビルなどの建物や大きな施設、街灯や都市など)が破壊されて自然に戻るさまに、強い帰属意識を感じます。例えば、大地震で街が崩壊し、普段は灰色に染まる夜空に満天の星が現れる、という様子には、故郷に戻ってきたような安心を感じます。私は、人工的な理路整然としたものには異国のような不安を感じますが、それが壊れ、エントロピーが増大した場所に変化する様子に、たまらなく安心します。


     有名な映画にも、こうした描写はありますね。映画『天空の城ラピュタ』のラストシーンでは、「バルス(「閉じよ」という意味)」の呪文であらゆるものが崩壊していき、最後はたくましい木とその根が残る描写がありました。あのような世界観には、故郷のような安心を感じます。



    変身に興奮するメカニズム

     これが「異常な興奮特性」の何と関係しているのか、といえば、私の興奮特性の随所に、自然回帰のこの安心感が見られるからです。自然に安心するということは、裏を返せば人工的な状態には緊張するわけで、もっと言えばそれは「異常な状態への緊張」を意味しています。この「異常な状態」というのが、そう、変身を遂げてしまった人の肉体だというわけです。健康な人間からいきなりオバケやヘビ、豚やゾンビに変身してしまった人は、意識が残っていれば動揺し、焦り、パニック状態になります。そうでなくとも、不健康な状態(ゾンビ:血を吐くなど)になります。この「異常な状態になってしまった身体」に対して、緊張に由来する強いエネルギーが湧き、興奮するのです。


     しかし、話しはそう単純ではないようです。都市の中にも、アスファルトを割って雑草が生えていたり、カラスが飛んでいたりするように、自然は都市に適応して残っています。その自然の様相はアマゾンやガラパゴス諸島とは変わり果てていますが、確かに残っています。いわば、「異常」の中で「正常」が息をしているのです。それでも生きようとしている「自然」の健気さが、「平静-爆発」の対比によって興奮として知覚されます。


     変身した人も全く同じです。変身した人のもつ「元の姿」と同じ特徴 -顔、体つき、そして人間だった頃の心- に対して、「異常の中で生きようとする正常」の息吹を感じ、それが圧倒的な緊張の中に一筋の安らぎを与えます。しかし、それは「平静-爆発」の対比構造によって、たちどころに興奮に変化します。


     すると、私の中にはこの時①「自然-人工」に起因する緊張の興奮と、②「平静-爆発」に起因する爆発的興奮の2種類の興奮が生じます。これは異種の興奮であり、互いに相互作用を起こします。その結果、興奮は掛け合わさって巨大化し、とんでもないエネルギーに昇華されるのです。


     以上が、変身に興奮する理由です。私は、変身した人が健気な姿を見せたり、涙を拭いて前向きになろうとしたりする描写を見ると気が狂うほど興奮するのですが、それは今説明したことで分かります。変身という緊張の興奮の中で、健気や前向きという「平静-爆発」に起因する興奮がより一層強くなるからです。


    棒人間で絶頂できる理由

     この興奮は、自分のうちから外に向かう強大なエネルギーですが、これを逆転させれば自分の内側に収束させることもできます。それは、自分が変身したりほっこりしたりするさまを想像すればいいだけです。


     この時の興奮もまたすさまじく、私はこの興奮を使って簡単に絶頂できます。一般の人がエロ画像やアダルト・ビデオを見るのと非常に対照的です。こうした「オカズ」に相当するものは、カップルがベンチに座っている後ろ姿や、かわいい棒人間が描かれた画像、はたまた『ねないこだれだ』の女の子で十分です。


    こんな画像でも、絶頂するには十分です。
    引用元:https://www.ac-illust.com/main/search_result.php?word=ハートを抱える




    興奮特性の大きな影

     実は、この興奮特性は「ほっこりしている人でエクスタシーに達する」ような甘い面だけではありません。これは同時に、様々な側面で私の人生を壊してきました。


     その理由は、大雑把には次の通りです:この興奮は「他者」に向けられている以上は心地よいものだが、「自分」が同じ立場になった時、それは自分を切り裂く刃になる。


    強大なナルシシズムの形成

     私が自分のことを狂人だと思うことがあるのは、幾分かナルシストの傾向をもっているからなのです。それは子どもの頃からずっとそうで、私は「ベイベー系男子」と称して破れた衣服を着てかっこつけながらキックボードを乗り回しました(小学6年次)。


     そんな可愛いものならばまだいいのですが、自我の形成とともにナルシシズムは強まり、私の場合は「頭が良くないといけない」というところに収束しました。その結果、数学と物理にのめり込み、理論物理学を究める夢ができて東京科学大学まで来てしまったわけです...。しかしその実体は、一部の天才に見られるような純粋な学問への愛ではなく、ナルシシズムの充足にあったので、私の学びは実に苦しいものでした


      このナルシシズムの正体は、先述した「興奮」の魔の手から自分を逃がすための力です。私自身が健気でかわいい人間であってはならないという強迫観念が、私を突き動かし、ナルシストになってしまったのです。私はただ単にかっこつけるのはかっこ悪いと思っており、「見た目は貧相で、中身が凄い人」にとても憧れています。それはなぜかというと、ブランドや高級車、腕時計などでかっこつけるのは、「かっこつけたい」という感情に変身させられているからだと考えてしまうからです。いわば、魔法をかけられてみにくいオバケになっているのと変わらないということです。その欲をもコントロールし、貧相に見えるようになっていることこそが、私のナルシシズムを充足させます(これは私の感じ方であり、ブランドや高級車が悪とは言っていません。)。


    天才主義

     私の人生を破壊したもう一つの要素に、「天才主義」というものがあります。これは「天才でない自分は愛せない」という考えで、いわば先述した「頭が良くないといけない」の成れの果てです。


     これには、私がしていた大きな誤解がありました。それは「天才でない凡人は、お金や道徳に熟達せねばならない」という固定概念です。


     それは、アイザック・ニュートンやレオナルド・ダ・ヴィンチのように、自然の真理を見通す人でなければ、凡俗な道を生きるしかなくなる、という強迫観念です。凡人は社会という巨大な人工物の中で、身体や心といった内なる自然をぞんざいに扱われ、そのなかで「魔法にかかって変身した人」のようにお金や道徳の重要性を主張するようになるのではないか。多くの人が子どもの頃はニュートンやダ・ヴィンチのような面をもっていたのが、大人になると生活に追われて四苦八苦する人になってしまうのではないか。内なる自然は、どこに行ってしまうのか。大人になると、社会という人工物に、心の中まで変身させられてしまうのか(ヒト化)


     それらすべての「免罪符」が、天才になることだと思った私は、全ての好奇心を捨てて天才になることを目指しました(2017年~2023年)。圧倒的天才になり、心を社会に変身させられない人にならなければ、死ぬしかない、とも考えました。これには様々な理由があるのですが、最も大きなものの一つに、この「興奮特性」があります。ちょうど「ほっこりすること」で興奮するように、凡人が安心することは私にとっては爆発的興奮の種でしかなく、それが「天才になる」という恐ろしい強迫観念を生んでいたのです。


     今は、「天才でなくとも、自分の生きる道は自分で選べる」という考えのもと、天才主義は落ち着いています。もっとも、その考え方を「健気な考えだ」とみなしてしまい、平静-爆発の対比から興奮が再燃して天才主義が復活する可能性は0ではありませんが。



    平静-爆発の起源

     これらほぼすべての興奮と厄災をもたらした「平静-爆発」の対比構造は、どこから来ているのでしょうか。実は、これは未だ解明できていません。


     その原因はの一つは間違いなく、幼少期の体験にあると思います。私は過干渉気味の母と暴力的な父の間に生まれ、安心することの少ない子ども時代を過ごしました。いつも慰めてくれるのは自然であり、小学6年次までは嫌なことがあっても風に吹かれていれば忘れられたものです。


     恐らく、私は人間界の安心である「ほっこりする」というシチュエーションで、心を荒立たせていないと生きられなかったのでしょう。その理由は分かりませんが、数多なるこの異常な興奮特性の数々と、棒人間やオバケのイラストで絶頂できる今の身体、および天才主義などの壊滅的な悩みがそれを物語っています。


     本稿では、興奮特性の本質である「平静-爆発の対比構造」については解けませんでした。今後、トラウマケアやカウンセリングを受ける過程で、徐々にこの辺りのこととは向き合いそうです。


    むすびにかえて

     散歩の時に、クローバーを確認するためにしゃがんだのが、思わぬところまで思考が波及してしまいました。思えばこれを書き始めたのは2026年3月28日の9:00ごろで、今が11時なので、約2時間の間、私はこの画面に張り付いていたことになります。この過集中、何とかなりませんかね・・・。


     この「平静-爆発」の対比構造や自然と人工など、興奮には至る所に二項対立の構造が見られます。これは興味深いことで、安心は一元的な感情(唯一無二)なのと対照的です。私は、今までの生存戦略で二元論を駆使していたことになります。この「二元論の駆使」は、安心できない私の特性や過覚醒とも関係しているかもしれません。もっと勉強して、そうしたことも理論的に考えられるようになりたいです。

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