低位と高位の概念 -子ども至上主義から社会まで-

目次

    はじめに

     この記事は、2024年10月に書いた文書『低位と高位の概念 -子ども至上主義の本質-』に加筆したものです。2作目の記事の「2024年度」の節でも述べたように、低位と高位の概念の発見は、精神世界の探究の上で非常に大きな出来事でした(なお、「2作目の記事」は約4万文字に及ぶ長文です。)。


    「低位」とは、物事の基本的な階層であり、「高位」はそこから派生した複雑なこと。


    2作目の記事より抜粋


     この「低位と高位の概念」は、物事を「基本的な階層」と「複雑に派生した階層」に分けただけのことで、一見すると非常に当たり前のことを言っているだけかもしれません。しかし、この言語化をすると、大人の厳しさや社会の理不尽さなどのことが、立て続けに言葉にできました。


     本記事は、その『低位と高位の概念』をまとめるものになります。元文書から、プライバシーにかかわる部分は改変してあります。


    言葉の定義

    「低位」=物事のより基本的な階層。


    「高位」=基本的なことが派生し、枝葉に分かれて発展した階層。


     低位と高位は、それぞれ「木の幹」と「木の枝葉」に喩えられます:


    木のイメージ。画像はこのサイトより引用。


     例を一つ。


     「脱いだ服はたたむ」というのは、基本的なこと、すなわち低位のことです。それを教わった幼児は、純粋にそれに従い、脱いだ服を丁寧にたたむことでしょう。しかし、その幼児も学童期になり、早くゲームをやりたい、というときなどに、脱いだ服をそのままにしてゲームに没頭することもあるでしょう。この場合、ゲームをやりたいという欲求は、「服をたたむ」ということよりも高位の物事です。


     この例から察しがつくように、自分のフィールドが広がったり、自分が成長したりすると、自分を取り巻く物事は、自然に高位になります。


    動機と例

     高位の矛盾を解消しようとすると低位で矛盾する現象を探ります。まずは「高位の矛盾を解消しようとすると低位で矛盾する」例をいくつか。


     まず簡単なところから。ドラマなどでよくある例は、「お前の秘密を全部ばらすぞ!」と脅迫され、その人を殺してしまう、というものです。その人に「秘密」ができた過程は、様々に複雑で、間違いなく高位の物事です。そのような秘密の中には、公になれば自分の人生が危ういものもあるかもしれません。


     そこで、それが公になるかもしれないという「高位の矛盾」に立たされた時、それを解消するために「殺人」という最も低位の矛盾を犯してしまう、というのがこの例です。「人を殺してはいけない」というのは、おそらくこの社会で最も基本的、すなわち「低位」のことです。


     別の例には、「金に目がくらむ」というのもこの現象の一種であると考えられます。


     どうしてもお金が必要になるのには、様々な経緯があるでしょう。「ほしいものが買えない」ということから、「わが子の入学費用が払えない」であったり、「授業料の督促状が来た」であったり、実に様々です。こうした高位の矛盾を解消するために、「保険金目当ての殺人」や「金銭のだまし取り」などの「絶対にしてはいけないこと」、すなわち低位の矛盾を犯してしまうことがあります。金に目がくらんだ犯行や悪事は、その動機が高位の矛盾の解消であり、結果が大きな低位の矛盾であることが多いように思います。


     また、この「金に目がくらむ」という慣用句が示している通り、このような「高位の矛盾の解消」の結果起こした低位の矛盾が罪や法律違反になった場合、責任はあくまでも「本人」にあるとされます。諸悪の根源を作った「金」が悪いのではなく、目がくらんだ「本人」が悪い、ということです。つまり、高位の矛盾が起きた過程については、法律上はほとんど考慮されず、あくまでも「低位の矛盾を起こしたこと」が悪いとされます(例外はありますが)。言ってしまえば、高位の矛盾は起きたことそれ自体が自己責任であり、それを解消しようとして低位の矛盾を起こすことは理由のいかんにかかわらず「悪い」とされてしまうのです。


     さらにもう一つ例を示そう。高位の矛盾と低位の矛盾のこの関係は、なにも社会人や大人だけの問題ではない、という例です。


     例えば、大学生であってどうしても単位が取れないと留年してしまう、という状況に立たされた人がいたとします。その人がそのようになった経緯は、ほかの科目を落としてしまった、であったり、苦学生でありただでさえ学ぶ環境が芳しくなかった、であったり様々でしょう。つまり、その人が「単位が取れないと留年する」状況になったのは「高位の矛盾」です。しかしその矛盾を解消するために、カンニングやレポートの盗作、すなわち不正行為をした場合、それは「不正行為」として懲罰を受けることになります。つまり、その学生は低位の矛盾を犯したことになるのです。

     

     この3つの例からも分かるように、高位の矛盾は様々な事情が絡んだ複雑なものである一方、低位の矛盾は幼児であってもそれが悪いことだと分かるほど簡単な構造をもっています


     私の知人に、殺人のニュースを聞くと、まるでテープレコーダーにでもなったかのように「この人は虫けらにも劣る」と連呼していた人がいます。その知人は、人を殺してしまった人が「本当に『殺人は悪だ』ということを分かっていなかった」と考えていたようですが、これは無論、誤りです。分からない人のために念のためその理由を述べれば、その人は、「殺人=悪」ということを理解していた一方、それ以上に差し迫っていた高位の矛盾と戦っていたためやむを得なかった、ということです。


     さて、このような現象のうち、私にとって最も大きなものの一つが子ども至上主義でした。子ども至上主義の説明文を、語録集(2022年4月~。私が書き溜めている、独自の言葉を記録する文書) より引用します:


    (前略)精神世界を翻弄した、究極の病。「子ども時代が最高で、大人はそれを失う」という強い観念によって、過去や未来、ひいては「今」から生きる希望を奪い去った。その影響は甚大で、子どもに対する恐怖心や敵対心、および成長していくことや何かを考えることに対する絶望を生み、先の天才主義とも相まって人生に対して前を向く精神を根本からえぐった。この子ども至上主義もまた、その本質は「子ども心」にある。つまり、成長とともに失われていくあどけない姿、それに伴う周囲の視線の変化、「臨界期」が過ぎると物事の吸収能力が極端に落ちること、さらには犯罪年齢の適用などの社会的責任の増加、および自分の持つ純粋さが時に「大人の事情」としてかき消されてしまうことなど、枚挙にいとまがない、人間の発達に伴う社会的、生物学的変化に対する懐疑心がその原動力だったのである。

    「子ども至上主義」-語録集より

     

     「人間の発達に伴う社会的、生物学的変化」は高位の事象です。つまり、より派生的で、高いレベルで起きている変化なのです。それらを「自分の問題」として受け入れる過程で、そのようなことを知る由もなく、ただ純粋に生きている子どもたちが憎くなるという反応が、子ども至上主義においては非常に多く起きました。そこで、この矛盾を解消するというのが「子どもに対する恐怖心や敵対心」という精神的反応なのですが、これは「子どもは何も悪くない」という低位(基本的)な事象と矛盾し、背徳感や罪悪感を生みました。


     もし子ども至上主義をもっていた私が、あからさまに世間の子どもを嫌った(避けたり気持ち悪がったりするなど)場合、その子どもも嫌な思いをするでしょうし、その子どもの親や世間の人も、なぜそのようなことをするのかと問うかもしれません。子ども至上主義という高位の矛盾によって、「子どもを嫌う」という低位の矛盾を犯してしまうという構造になっているのです。


     なおこれは蛇足ですが、このようにして「子どもを嫌う」ことが起こした最も残酷な事件の例があの「川崎登戸通り魔事件(2019年)」であるように思えてならないことがあります。あくまでも真相はわかりかねますが、私が当時、その犯人にひどく同情してしまったのは、私もまた「子ども至上主義」という形で子どもを憎んでいた一人だったからなのでした。「大人の事情」の重圧(高位の矛盾)に押し固められ、その苦しさの矛先が子どもに向いてしまう(低位の矛盾)ことは、大いに同情できることです。


     人生において、高位の矛盾を解消しようとした結果、低位の矛盾が起き、致命的な「罪」や「罪悪感」を生ずることは多いように思います。さらに、矛盾は高位よりも低位のほうが、精神的ダメージが大きいようです。これは明らかに対処を要する物事です。では、これはどう対処すべきでしょうか。



    対策

     現在(2024年10月当時)主流になっている考え方は、「低位の優先」です。つまり、自己の基準を低位の物事に合わせ、うまい考え方を設定することで高位の情報を無視するという考え方のことです。


     すなわち、最初から事態を複雑にしなければよい、と考えるのです。高位の事象と低位の事象の健全さを両立させるためには、複雑な事情の数々を考慮したまま、基本的な物事にも最大限配慮する必要があります。それは例えば、つらい会社で厳しい上司にいい顔をし、そのつらい心のまま、わが子の通う幼稚園の友達にも顔を引きつらせて笑っているなど、その時に一番犠牲になっているのは自分の心です。したがって、そのような精神力のない人(例:私)ができることは、自分の人生に最初から高位を取り入れないこと、これに尽きます。


     しかし、何が高位で何が低位かを見分け、その上で低位のほうを選ぶのは、一般的に難しいことです。


     基本的なことというのは、様々に派生した複雑な物事を見ていると、分からなくなってしまうものです。「真実は子どもの口から出る」というフランスのことわざからも察しがつくように、高位の事象に日々さらされる大人はなかなか真理を言えません。直感的にはもっと大事なことが明らかであっても、その場の雰囲気や、場を取り巻く諸事情によって高位の振る舞いを余儀なくされ、低位の事象をないがしろにしてしまうことは多いものです。


    子どもが真実を言える特殊能力をもっているのではない。子ども社会が、真実を言えるようにできているだけのことである。

    精神科に持参したノートのメモ(2024年9月) 


    さらに、自分では低位の物事を優先しているつもりであっても、様々な物事と折り合いをつけているうちにいつの間にか高位の物事を取り入れている、と言ったこと(これをいわゆる「ゆでガエルの原理」というのでしょう)も起こり得ます。したがって、高位の物事を取り入れないというのは、その場しのぎで何とかなるものではなく、自分がどうありたいかという確固たる意志をもち、その上で積極的な高位の排除を行うことで初めて達成されるものではないかと考えられるのです。


     偉大な数学者の岡潔先生を、私は尊敬していますが、彼の生きざまには、数多くの「積極的な高位の排除」が見られます。例えば「電話は俗物」として家に置くことを許さなかったこと(岡潔著、森田真生編『数学する人生』(新潮社)p.191)はその例でしょう。電話を置くと、例えばいつ何時かかって来るか分からないという気配りや、電話での会話を通して余計な世間の情報を取り入れてしまうことなど、さまざまな高位の情報にさらされることになってしまいます。そこで、そうした「高位の情報の源」である電話を「俗物」と一蹴し、家に置くことを許さなかった岡潔氏の考え方は、畏れ多いが実に理に適っていると思います。


    余談:岡潔先生が「電話」という高位の事象を「俗」と表現したのは実に巧いと思います。電話に限らず一般に「高位の事象」は、様々な条件分岐が自然に発生し、それを完璧に処理するのは人間業ではできません。その結果、高位の事象というのはそれに付き合えば付き合うほど自分の質が下がっていくことになります。その上、高位の矛盾を解消しようとして低位の矛盾を犯してしまえば、それが自分の責任になるというものであるからたまったものではありません。低位の矛盾を一つ犯せば、今まで高位の事象を矛盾させずに守ろうとしていた努力も水の泡になります。そこで、高位の情報のほうを「俗」と呼び、はじめから自分に取り入れなかったのは、岡潔先生の在り方は、本当にかっこいいと思うのです。



    諸概念の明文化

     閑話休題、ここで「低位と高位」という視点で見た諸概念を整理してみましょう。


    (1)「ヒト化された人」というのは、自分の生き方、在り方という最も基本的な部分が、高位の物事(すなわち、複雑で無数の条件分岐がある物事)に支配されてしまった状態であるといえます。もはや自分の存在自体が諸事情で塗り固められ、低位の行動を選びたくても選べなくなってしまった人のことをいうのです。

     しかし、いくらヒト化された人であるといっても、愛を受けて育った人である限り、奥底には子どものころの感性を、まだ少しはもっているはずです。私は、ヒト化された人は「大人になって複雑になってしまった自分」と「残っている子どもの感性が上げる悲鳴」の間で苦しんでいるだろうと思い、ヒト化されることを死ぬほど恐れていました(2019年~2021年)。


    大人とは古くなった子どもである。

    ドクター・スース(アメリカの絵本作家)のことば


     (2)「大人恐怖」とは、いくら精神的には低位を望んでも、大人になると、大人として人並みの「高位の事象」を避けられなくなるのではないか、という考えによる恐怖です。これは最近では「大人だからこそ、自分が低位の次元で生きることも選べる」という考えによって和らぎました(2023年11月・大人になることの再定義)。


    (3)「天才主義」とは、「天才ならば学問だけ極めて、人としてはずっと低位のまま生きられるのではないか」という考えによる天才への執着の病です(2017年~2023年)。このように天才主義は、天才への執着に見えて実は「低位のまま生きること」に対する執着だったのです。かつては「天才にならなければ、人生において低位を選ぶ生き方はできない」という固定概念があったために、天才主義になっていましたが、現在は(2)の「大人恐怖」の克服と同様にして、「天才でなくとも、自分の人生は自分のものであるから、自分が低位の生き方を選べばよい」という考えのもと、この病は和らいでいきました。



    よりよく生きるとは(私の例)

     以上の考え方にのっとれば、人生をよりよく生きるということの私における定義を次のように書けます:


    出来ることはすべて行って、如何に低位のまま生きることを最適化できるか?


     つまり、低位のまま生きることを最大の目標として、それ以外は二の次だと考えるのです。この意味で、私は(今の意味での)「自分の生きる指針」を見つけたといえそうです。


     「よりよく生きる」と言えば、以前「ジョージの原理」という思想を考えたことがありました。同思想を、再び語録集から引用します:


    天才主義やそれらの苦しみに対する、現時点での解。名称は「おさるのジョージ」に由来。超優秀で理想郷に住めるのが天才、そうでなく一般の世界で苦しむのが凡人であれば、この世界を凡人よりもさらに下から見て、何事も新しくい美しい(幼い)子どもの視点からこの世を見上げるという発想。(後略)


    一般に、大人になると視点が高位になり、日常に存在する発見を見失ってしまうことが多いものです。しかし子どもにはそうした高位の視点は最初からないので、低位の視点でこの世界を見上げて、様々な発見をします。

    子どもは何もないところであらゆることを発見する。大人はあらゆるものを目にしても何も発見しない。

    ジャコモ・レオパルディ(イタリアの詩人・随筆家)のことば


     「ジョージの原理」という生き方は、その低位の視点を、大人になっても持ち続けることを述べたものです。「ジョージの原理」は、「天才と凡人」という言葉こそ使っていますが、本質は「低位のまま生きること」、すなわち上で述べた「人生をよりよく生きること」に同じで一貫しています。


    子ども至上主義の本質

     いよいよ、「子ども至上主義」の本質に迫ることとしましょう。


     なぜ子どもは至上なのか?答は、「大人だというだけで高位になってしまう人生の要素が存在するため」です。


     それは言い換えるならば、「大人になると避けて通れない高位の事象があること」です。以下、この例を示して説明に入ります。まずは分かりやすいところから述べます。それは年齢の増加に対する法的扱いの変化です。


     刑法41条「14歳未満の者の行為は罰しない」はその端的な例でしょう。言い換えれば、14歳を超えると、自分の行動に法的責任が伴うようになるということです。それによって、自分の行動に対する最大限の自覚という、子どものころにはなかった「高位の事象」とかかわることになります。


     しかしこれは「悪いことはしてはいけない」という子どものころからあった「低位の事象」を守っていれば、犯すことのないルールです。ところが子どものころと違うのは、「悪いことを犯した場合、許されなくなること」です。


     そして年齢が大きくなっていく人を取り巻く変化は、なにも「法的扱い」だけではありません。世俗的な扱いも同時に変化します。


     例えば、学業不振で留年ばかりしている大学生がいたとします。彼は8年以内に大学を卒業すれば、大学の規定上は何ら矛盾することはありません。しかし、彼に対する世間の風当たりは冷たいだろうと思われます。例えば彼にいとこの小学生がいた場合、ひょんなことから、素朴に「なんで同じ学年を今年もやるの?」と訊かれることもあるでしょう。「去年も2年生だったじゃん!」「なんでなんで?」と質問攻めにあうこともあるかもしれません。そのとき、彼が気分を害するのは火を見るよりも明らかなことです。


     つまり世間からのまなざしが「子ども向け」から「大人向け」に変化することも、「高位の事象」の一つです。これは自分ではどうすることもできない「不可抗力」なのです。


     同様の思考を繰り返すことで、大人として、一定以上関わる「高位の事象」が存在することが分かります。


     一方、子どもにはそうした「高位の事象」はないか、あってもわずかなものです。勿論、宿題や勉強はありますが、それらは取り組みやすいように大人が指示、工夫してくれます(なお、いじめや子ども社会という例外は山ほどあります。これは文書の執筆当時には気付かなかったことでした)。


     以上を見るだけでも明らかなように、大人になるだけで自然に多くの「高位の事象」に関わる必要があります。そして観察すると、一口に「高位の事象」と言っても、それは次の図に示すように互いに順序づいています:

    低位の事象と、高位の事象の位置関係。


     つまり「高位の事象」の中にも順序があり、法的、道徳的なものが一番低く(基本的で)、その上に世俗的なものが無数にあるのです。例えば、先ほどの「刑法41条」は高位の事象の中でも低い(基本的な)部類であり、理由のいかんにかかわらず適用されます。一方、組織内のルールなどの「高位の事象」は、その会社でしか通用しない局所的なものです。したがって、「高位の排除」のためには、自分をどの環境に置くかということが重要になってくるでしょう。


     ここまで準備すると、子ども至上主義が説明できるようになります。「よりよく生きるとは」(私の例)の節でも述べたように、私においてはどうやら「低位の次元を生きること」が直接、私の幸福につながるようです。その意味において、「低位の次元を生きること」というのは、ほかの何にも代え難い大切なことなのです。私が悩んできた子ども至上主義とは、言ってしまえば『低位至上主義』の派生形にすぎないということです。低位至上主義とは「低位の物事こそが最高である(安心できる)」という私の認知を、ある一定以上の「高位」が必要な場である「社会」という鏡に映した時に必然的に生じる思想です。この「低位至上主義」において、「子ども=低位」として従うのが子ども至上主義だというわけです。

     そして、先ほど述べた「大人には存在して子どもにはない『高位の事象』」がある限り、子ども至上主義は和らぐことはあっても消えることはないでしょう。なぜならば「子ども至上主義」とは、私がここまで強く「低位であること」を望むことによって引き起こされた病気だからです。低位であることを何よりも強い理想とし、低位であることこそが全てだと思い続ける私の気質こそが、子ども至上主義の原因であり、本質なのです。

     この気質――低位であることを望むこと――が変わらないのだとすれば、大人であることで届かない「低位」がある限り、子ども至上主義は、消えることはないでしょう。逆に言えば、私は「子ども至上主義」という病を経験することで、自分は低位で生きるのが適している人間なのだ、ということを学んだともいえそうです。

     ―――では、現実的にこれをどう対処するか。


     冒頭の「子ども至上主義」の語録集からの引用における、「社会的、生物学的な変化」こそが、低位を高位に変化させる元凶だと考えられます。したがって、上記の「子ども至上主義の本質」を踏まえれば、この変化をいかに最小限に食い止めるかが、子ども至上主義という大きな病を克服することに係るのでしょう。

     この節の最初から述べてきた「大人には存在して子どもにはない『高位の事象』」に関する考察から、最低限関わる「高位の事象」は残念ながら存在することが分かります。したがって、大人であって完全に子どもと同じほどの「低位の次元」で生きることは難しいと考えられます。しかし、周囲の方々のサポートの力を借りたり、また自分の人生設計を工夫したりするなどして、最低限関わる「高位の事象」を可能な限り減らすことはできるでしょう。今後の課題としては、今述べたことを精密化し、実現可能にすることです。

    <今後の課題>今後は、物事がどのように「低位」から「高位」に変化するのかに関する規則性を探り、出来ることは最大限行い、それに即した「低位の最適化」を考察・実現する。

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    発展:物理学と子ども心

     私は、自分が思うように物理学を学べないことに、長年葛藤を抱いてきました。ここで「思うように」という言葉に託している意味がポイントです。

     私は、低位の自分の心――これを「子ども心」という――の中で物理学を学び楽しみたいと思ってきました。かつて「これから自分は大人になっていくだろう。しかし、自分の童心は数学・物理で守る。」と言った(2018年ごろ)ように、私は物理や数学の凛と広がる地平を、自分の子ども心の広大な遊び場だと思っています。ところが、頭ではそう思っていても、実際は難しい用語や概念に苦戦し、そのように学べないことが多いものです。

     そのような時、今までの私はしばしば「自分の能力」を問題にし、それが低いからこうなるのだ、と自分を責めてきました。天才主義の中でも、そうした思考は数多く展開されてきました。そう、低位を望みながら物理学をやることを通して、皮肉にも自分が高位になってしまっていた(=悩んだり葛藤したりしていた)のです。

     自分が低位の階層で物理学をやろうとすることにこだわるあまり、こうしたことが起きていました。では、どうするのが良いと考えられるでしょうか。

     この場合は、「低位の心で物理学をやれているか」という自分への評価を放棄することがポイントでした。私には、それを望むがゆえに、自分が低位の次元で物理学をやれているか、過剰に気にしてしまう節がありました。そこで、『自分が今、低位の次元で物理学をやれているか?』と、自分に問うことをやめてみました。すると、楽になると同時に、逆にその方が低位の心で物理学をやれることに気づきました。

     これは上で述べた「ジョージの原理」の体現の一つです。「低位の心で物理学をやってやる」という、物理学を上から見る視点を放棄し、「日々新しい発見」という、物理学を下から見上げる視点をもつことで、本当の意味で物理学を低位でやる姿勢を、獲得したのです。


    発展2:何が低位で何が高位なのか

     これは発展事項ですが、今まで述べてきた「低位と高位」とは、実はあいまいなものなのです。

     というのも、何が低位で何が高位なのかは、相対的にしか決まらないからです。例えば、幼稚園児の一日は、大人から見ればかわいいもので、十分低位に見えるかもしれませんが、1歳児からすれば、幼稚園児は毎日幼稚園に行かなければいけないわけで、大忙しに見えるでしょう。つまり、1歳児から見れば幼稚園児の社会は高位なのです。

     この思考実験からも分かるように、「これは低位」「これは高位」と言える絶対的な物差しは存在しません。何が低位で何が高位なのかは、基準によっていくらでも変わり得ます。では、私は何をもって「大人社会は高位」と思い、「子ども至上主義」を発症したのでしょうか?

     実はこれは未解明です(2024年10月時点)。恐らく私の生い立ちや、私が今までの経験で得た価値観にその論拠は存在するでしょう。しかし、この文書では、はっきりとわかる根拠は見つけられませんでした。いずれにせよ私が「子ども至上主義」を発症したこと自体が、「私にとっての低位と高位の存在」を物語っているので、それは存在するはずです。

     一方、こうも考えられます:「低位と高位の物差し」は年齢とともに変わるはずで、「子ども至上主義」とは20歳前後当時の私が持っていた「低位と高位の物差し」によって発症したのではないか、と。つまり、私が「大人社会=高位」と思わないほど自分が高位になれば、それに従って「大人社会は高位」と思わなくなり、子ども至上主義は消えるのではないか、とも考えられるのです。

     それも一理あるでしょう。実際、人が社会に適応できるのはこうした変化(=自分が自然に高位になる変化)が起こるからでしょう。しかし、私はその道を選ばないと思います。子ども至上主義が一生残ってでも、私は「基本的なこと」に忠実な人間でありたいと思うからです。嘘もつきたくないし、複雑な社会性の中に飲まれるのも嫌です。私はいつでも「純粋」で「誠実」でいたいのです。「損得」ではなく、「嘘か真実か」を語れる人間であり続けたいと考えています。


    損か得か 人間のものさし  うそかまことか 仏さまのものさし

    相田みつをのことば


     (この引用は一例であり、私が「仏」でありたいという意味ではありません。)


     今もそうですが、私は「成長」という言葉を嫌ってきました。ここまでの話を踏まえると、成長とは「自分が自然に扱える『高位の水準』が上がること」を指すことが分かります。一般社会では、高位の事象を扱えるようになることは「良いこと」とされています。それ故「成長」という言葉もよい言葉として捉えられます。しかし、物事を純朴な目で見て、基本的なことに忠実であることを至上とする「低位至上主義」の私には、自分自身が高位になり、低位から離れてしまうことはむしろ「悪」とされるのです。そのため、私は自分が成長すること(=高位になること)は望んでこなかったし、これからも望まないというわけです。


    余談:「高位を扱えるようになること」がそのまま「低位から離れること」に同じなのか?というのは実にいい疑問です。この両者は、本来は無関係のことでしょうが、どういうわけか、今の社会では「高位になる」ことと「低位から離れてしまう」ことに対して、トレードオフの関係が至る所で見られます。もしかすると、「自身は低位のまま、高位の物事を扱えるようになる」という発達を遂げられるかどうかが、今後重要になってくるかもしれません。


     ここまでくると、もはや私の人間性の問題になってきそうですが、やはり私は「低位の次元を生きたい」と思い続けてきたし、今後もそう思い続けることでしょう。私は低位な自分に合わせ、今後の生活を歩んでいくことになるのです。


     この理由も上記「今後の課題」と合わせて、不調にならない程度に、課題として考えてみたいです。


    おわりに

     子ども時代とは、誰しも経験する「低位を不自由なく生きられる時代」のことだと思います。低位の階層を不自由なく生きられるというのは、高位について回る、複雑な条件分岐を一切考えなくてよいという究極の自由です。無論、大人になればこれは当時の大人たちが代わりにこの条件分岐をやってくれていたからであると理解できますが、そのようなことを知る由もなかった子ども時代は、この自由な感覚を不自由なく持っていました。それゆえ一般的には、子ども時代には、えも言われぬ圧倒的な清々しさと、その中で命を燃やした鮮やかな記憶が人それぞれにあることでしょう(勿論、これは幾分かの美化を含んでおり、これを最初から持っていない子どもも存在するはずです。それに関してはここでは深入りしません)。


     次の短歌は、子ども至上主義が今よりももっと重篤であったころに、私が詠んだものです:


    我が中に 誇れるものの ありてこそ 幼き日をぞ 振り返らるる

    (2020.1)


    大人であって、子どものころについて自信をもって振り返ることができる時というのは、自分の中に確固たる今の充実がある時です。さもなくば、子ども時代の燃え盛る自由(=高位を知らない自由)のエネルギーに負けてしまうのです。私はそうした考えのもと、2020年1月当時、この短歌を詠んだのでした。


     私にとっての「今の充実」は、第一に、低位の次元を生きられていることがその必要条件なのです。したがって、今後の私はいかに低位のまま生き、その中で自分の「誇れるもの」を得るかを模索することになるでしょう。



     今回の文書(2024年10月当時)で考察した「低位と高位」の概念は、間違いなく今後の人生を生きる上での大きなヒントになることでしょう。



    あとがき

     この『低位と高位の概念-子ども至上主義の本質-』は、その後本当に「大きなヒント」となりました(2026年3月)。それは、「低位と高位の概念」というこの文書自体が、実はパニック発作によって自分や他者を傷つけてしまう自分自身の低位の矛盾を指していたことに気づいたからでした。これは、哲学的考察の形をとったSOSだったのです。

     私は、嫌でも冷静にふるまってしまうことがあり、周囲の人になかなか理解されないことが多いです。今では、理解されなくとも、楽しい話や面白いことをして過ごせればと次第に思えてきているので、他者の理解が律速段階(ボトルネック)になることは減りました。しかし、メタ認知が自分を支配し、自分に嘘をついてしまうことは往々にしてあります。今は、そのための環境調整を実行しているところです。

     当時の自分が、この『低位と高位の概念』を書き残してくれたことを、嬉しく思います。

    追記(2026年3月28日):高位は難しい

     ふと調べ物をする機会があり、ユダヤ系イタリア人の作家・プリーモ・レーヴィ氏の死因について調べていました。すると、アウシュヴィッツ収容所を生き抜いた彼が亡くなったのは、自殺だと知りました。

     (前略)彼の世界には曇りがない。それがプリーモ・レーヴィが与える印象だった。そうした印象は彼の自死によって覆されてしまった。

    このサイトからの引用 


     プリーモ・レーヴィ氏に限らず、自殺はしばしば心の弱さと結びつけられ、その人の信用にかかわることとされます。しかし、私の今までの体験や私の尊敬しているYuki様という方のブログの記事などを鑑みると、「自殺=弱い」という考えは的外れであることが分かってきます。


     これは何を示唆するでしょうか。私は、人々が「自殺=弱い」と決め付けてしまうようなこのことの背景には、人間という種族にとって高位の概念は難しいことを示唆するように思えてなりません。


     自殺の原因は、間違いなく高位の物事です。様々に複雑なことが絡み合い、本人の思考や神経システムが破壊される「他殺」と表現できます。しかし、人はどうやらこうした高位の物事を直感的に理解することができないようです。自殺は怖いことだとか、弱いとか、精神が異常だとか、そうした考えやすい方向に逃げてしまいます。ステレオタイプや印象で、物事を判断してしまうのですね。特に日本社会では、これは「世間体」として知られているように思います。


     たしかに、評論やコメントをすることは落ち着けば可能です。しかし、すぐさまの判断という次元においては、ヒトという生物は高位の物事を判断できないのではないでしょうか。勿論、かくいう私も例に漏れず、こうしたことを考えるには一呼吸がどうしても必要です。


     さらにこの思考を進めると、面白いことが示唆されます。なぜ、人は高位という難しいことを考え、それを社会の中核にしているのか。現代社会では、経済システムも政治も、人権などもあらゆることが、高位の事象として管理されています。これは、「人が高位の判断を直感的にできないこと」を認めれば、当然のようにも見えてきます。というのも、人の判断は低位になりがちなので、高位の概念を社会システムの中核に置くことで、大事なことを堅牢に守っていると考えられるのです。いわば、社会を壊さないために、大事なことを高位にしているというわけです。高位には、低位に存在する危うさ(直観的な簡単さ、理解の甘さ、など)を排除する機能があるというわけです。そう考えると、「高位の物事は排除すればよい」というかつての生存戦略は、良いところで折り合いをつけるのが賢明だと考えられてきます。この検討は、今後一生かけて行っていくことになるかもしれません。


     プリーモ・レーヴィ氏の自殺について調べると、人は高位の物事を認知できない、と考えるのが自然なように思えてきます。『低位と高位の概念』は、パニック発作のSOSにとどまらず、やはり重要な何かを示唆しているように思えてなりません。

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    287回のパニック発作と、109万6725文字の文書たち・大学7年間の軌跡

    なぜ「自分のことを分かってほしい」と思うのか ~承認欲求などの背後にあるもの~